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朝鮮通信使の射芸 左右射

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 享保4年(1719年)10月10日、宗対馬守義誠の采配により、来日中の朝鮮通信使による歩射と騎射の射芸が披露されることになった。八代将軍吉宗の曲馬上覧から5日後のことである。
 これが通信使による最初の射芸で、以後、寛延元年・家重襲職賀の通信使、明和元年・家治襲職賀の通信使によって行なわれている。
 内命により、日光御門跡をはじめ宗対馬守義誠と御用掛り、寺社奉行以下御小納戸等が観覧のため列席した。
 射芸の会場となったのは上野車坂下で、現在のJR上野駅と重なる場所である。寺院が建ち並ぶ広い通りを利用し、歩射遠的の矢道と馬の走路を兼ねた射場が急遽設営された。
 射場の位置と規模は次の通り。

  射場顯性院角より一乗院前迄、百二十間 幅六間より七間迄
  騎射場同角より屏風坂下迄、百六十間 幅同斷

 射場(歩射)の百二十間(約218m)は矢道の長さ、騎射場の百六十間(約290m)は、走路の長さであろう。ただ、走路の幅六、七間(10.9m、12.7m)は妥当な広さであるにしても、百二十間の矢道にしてはやや窮屈な印象を受ける。確かな射技が求められる。
 このときの射技や弓具について、『通航一覧』に引用された『鶏林來聘記』には次のように記されている。

  遠的騎射之次第
  一、一番に的有之、二番に騎射垜幕之方、北南より射る的場の間數百二十間、
    弓何れも半弓、矢重目六十目、但根矢也、何も立て射る。
  一、騎射射様の事、車坂土手際にござをしき、人數拵五所に有、南之方より
    乗出し射る、戻には逆故弓を右に持射る。
  一、的幕竪五間横四間半幕之地布之様成物、但地白筋丸共に紺之染ぬき
  
 歩射・騎射の的は幕を張ったもの、矢は根矢であった。射手は8名が選抜され、それぞれに介添えが付いた。的役がいて、先端に紙の付いた竹の棒を上げて的中を示した。
 射芸はまず歩射から行なわれ、次に騎射。射手は馬場を往復して的を狙い、折り返す際に弓を右手に持ちかえて射た。左右射であった。
 通信使の射芸で最も注目すべきは左右射である。これは左射と右射という意味で、弓を左手に持ち、弦を右手で引くのを右射といい、体を右に向けて開くのでこう呼ぶ。
 反対に、弓を右手に持ち、左手で弦を引き、体を左に向けて開くのを左射という。少々ややこしいが、こんにち一般的に行なわれているのは右射である。

 通信使の射芸に関する詳細な記録に、寛延元年(1748年)6月10日の射芸を記した『朝鮮人騎射之記』がある。しかしその冒頭には、歩射は根矢で遠的を射るため、矢が逸れたときのことを考え、隣接の寺院の門戸を閉じて衆人を観覧させなかった、といったことが書かれ、「故に押て戸外にたゝすみ遥かに見て委細を知らす、その大概を記す」という大変貴重な資料である。

  一、弓尺張□三尺餘、弣は弓の中央にあり、張高し、矢は和朝の遠矢こしらへ
    に同し、根は定角、箆廻り九分七、八厘、三羽にて雉子の肩三四の内を付
    ると見えたり、箆形をつけ根も小粒の定角なり、これも和朝の遠矢の根に
    同し、箆は洗斗にてもちゆると見えたり。
  一、足踏より打起し引取已發までの調子はなして跡の位その徐疾國の射形に
    意味同じ。
  一、引渡の曲尺中同恰好、弓手斜にして妻手の上に達す。はなれは拂と押切
    也、その形も武經射徳にいはく、如尺蠖勢開弓之圖。

 寛延の騎射的は高さ六尺余の板で作られた。外見は上辺中央が凸状で、その横に段が付けられ、下辺には中央に逆U字形の切り欠きがある。一見、人型のようである。
 歩射の的は布製で、騎射的同様、的の中央に竪四尺、横三尺の黒く四角い目當が描かれた。
 弓射の動作にみる調子と緩急は日本の弓術と同じであり、見た目は弓手を斜めに妻手の高さを越え、弓手主導の押切射法、『武芸射徳』の「尺蠖勢開弓之圖」の如くとある。
 『武經射徳』とは、中国明代の弓術家・高頴によって著された『武經射学正宗』のことで、日本には江戸時代に輸入されている。
 寛延の射芸も歩射の次に騎射が行なわれ、ともに左右射。騎射的は走路の脇に5箇所立てられ、弓は歩射と同じものであった。強い矢勢は板的を貫き、射終わって矢抜きの道具を使って抜いた。

  一、射手ならんで一發つゝ後に至その内に右の弓をにきり、左に弦を引射手
    あり。(但異國は射形に病めれは左右射その望にまかせ学ぶへし)

 そしてやはり『射学正宗』の影響であろう、左射の射癖矯正効果がすでに知られていたことに驚かされる。
 『射学正宗』の著者・高頴は、45歳のとき早気の射癖に悩み、思い切って左射に変えて稽古を続け、5年の歳月をかけて思い通りの射ができるようになった。しかし結局満足できず再び右射に戻したところ、以前悩まされていた射癖が軽減されていたという。
 それは意図しない偶然の産物であったが、当時左射は注目の的であった。高頴は記す、

  丙辰の年に又都に出た。私の左射のことが世間で評判になり、燕・趙・斉・秦
 の武芸士が雲の如く大勢集まって見物をする。其の中で最も射の味わいを知った
 者が、其の子弟をひきつれて、私を慕って離れなかった。

 通信使の左射に対しても、その観察の細やかさから関心の高さが感じ取れる。
 そもそも、左右射は経験を必要とする高度な射技であり、事実、通信使の射手は特に選ばれた者であった。彼らを招聘するにあたり、幕府が作成した『通信使講定式目』には、射手に関する条件が記され、朝鮮との窓口である対馬藩へ事前に伝えられた。

  一、馬上才は馬技精能の者、射芸の人は射法精妙・能弓強弓の者を軍官として
    帯来し観光之地となすこと。

 左右射に関する文言は無いが、朝鮮側も通信使の構成員に抜擢する際には、射手に限らず各分野で高名な者を国中探したという。

 朝鮮半島における左右射の歴史を遡れば、三国時代の高句麗古墳壁画に左射の射手が多く確認できる。徳興里古墳(409年)の狩猟図と馬射戲図、舞踊塚(4世紀末~5世紀初)の狩猟図はその代表的なもので、馬上から左右射で狙う射手が躍動感溢れる筆致で描かれている。

수렵도舞踊塚.jpg

 当初、壁画の左射は意匠性を優先した歪曲と思われた。が、通信使の射芸によって現実のものとして考えられるようになった。
 また、周書や隋書から、百済や新羅でも騎射が盛んであったことが窺われ、左右射は高句麗だけでなく、古代朝鮮半島において広く行なわれていたと思われる。
 一方、古代中国の絵画にも左射を表現したものが多く存在し、甘粛省敦煌莫高窟の北周時代の壁画に歩射の射手が、嘉峪関で出土した魏晋時代の磚画には騎射で鹿を追う場面が、それぞれ左射で描かれている。
 高句麗古墳の壁画から見て取れるように、左右射の利点はあらゆる方向に素早く射撃が行なえることで、徒歩立ちの歩射よりも、射手の動きに制限のある騎射で支持されてきた。
 中国・明代に李呈芬が著した『射経』では、弓を左右の手に持ちかえて射ることを奇射と呼び、「騎射を学ぶ者は、須く左右の手を習うべし」とし、騎射で必須の射技であることを説いている。 かさねて『射経』神奇第十二には、

   左にだけ弓を開いて射る者は、敵が右側に出現した場合には対処しがたい。
  また右にだけ弓を開いて射る者は、敵が左側に出現した場合には対処しがた
  い。私(李呈芬)の友人である張一白は、左右いずれにも弓を開き、しかも
  命中の精度は左右とも同一で、昔の名将岳武穆の腕に比擬されている。

 岳武穆とは南宋の武将・岳飛のことで、俗説ではあらゆる中国武術の祖とされ
る人物である。彼もまた、「左右の射を能くす」と伝えられている。
 
 朝鮮通信使の射芸以前、大陸の左右射と思われるものが『韃靼漂流記』に記されている。
 この覚書は、寛永二十一年(1644年)、国田兵右衛門ら越前商人を乗せた船が日本海で暴風雨にあい、10数日間漂流して満州の東海岸に漂着し、日本へ帰還するまでの記録である。
 漂流者たちは、移送途中の北京で八旗の弓稽古に触れ、その優れた騎射の技に感心している。

  武具は弓第一と見へ申候。弓の長け四尺斗御座候。唐の弓にて日本へ渡候
  其弓の形にて御座候。毎日弓稽古、馬上にても自由自在に射申候。的をも射
  申候。十間二十間程にてはづれ矢は稀に御座候。馬上にて射候時、馬を駆さ
  せ前後左右自在に射申候。其矢を馬上より走りながら取申候。見物致候得ば
  種々さまざま射法射曲在之候ておもしろき事に御座候。

 弓の持ち替えがはっきりしないが、当時明朝を倒したばかりの八旗の実力は疑いようがなく、その弓稽古の内容こそ、実戦で前後左右自在に射る技術が必要であったことを裏付けていよう。そしてこれは、日本人が初めて目にした大陸の左右射の可能性もある。

 また、17世紀のフランスの宝石商J・シャルダンが著した『ペルシア見聞記』には、彼が見た騎射競技の記録に左右射の描写がある。
  
  騎乗者は弓矢を手にポールの方に馬を駆りそれを通過すると、右か左後方に
 身をまげて矢を射るのだが、左右両方ができなければいけない。この競技は
 ペルシアの町いたるところで一般にみられる。王さえもこれをなさる。現王
 の祖父にあたるサフィー王はこれの名手であった。第一か第二の矢で、つねに
 的の椀にあてていた。その子アッバース(二世)もなかなか巧みであったが、
 その後を継いだスレイマーンは腕が落ちる。

 これも弓の持ち替えに触れていないが、この競技で駆使される射技はパルティアンショットと呼ばれ、的の横をいったん通り過ぎてから後ろ向きに狙って射るため、当然上体を大きく捻らなければならず、弓を持ち替えずに左右を射分けることはまず不可能である。
 ペルシアでも左右射は必須の射技であり、王族も自ら競技に参加して技を磨き、その腕前が人々の口の端に上った。また、こうした騎射競技が町のいたるところで行なわれているということから、馬資源の豊かさをも感じさせている。
 
 このように、ほぼ同時期にアジアの東と西で左右射が行なわれていた事実は、それが特定の国や地域、民族のものではなく、アジアに広く共通する射技といえるだろう。
 中国・宋代に著された『夢溪筆談』には「剣術や騎射は内外の法術をすべてとりいれ」とあり、対外的な優位性を維持するための射技や装備は、国の内外を問わず積極的に採用していたことがわかる。それはまた一方で、騎射文化圏で互いに刺激しあうことになり、結果、射技の共通と伝播をみるのであろう。
  
 しかし海を隔てた日本においては、弓手・妻手という語が定着していることからもわかるように、古くから右射が固定され、左射は行なわれていなかった。伝承や僅かな例外はあったにしても、射技の一つとして受け継がれることはなかった。
 右射が固定された理由と時期は定かではないが、歩射の射礼・賭弓・小弓・堂射、騎射の流鏑馬・笠懸等々、いずれも静止的との強い結びつきは無視できないだろう。
 では、日本の弓術は的が動く“運動的”にどう対処してきたのであろうか。
 武田流に伝わる「馬上十二の射法」は、実戦や犬追物などの運動的に対する射技で、現在もこれ以上のものは見当たらないが、やはり右射のみであり、妻手側の一部に死角となる領域が残されている。
 また、『吾妻鏡』の建久二年八月一日条には、騎射戦における優位な射位と死角が明確になっており、すでに右射の固定化が感じ取れるのである。

  大炊御門の河原において、景能八男が弓手に逢ふ。八男(鎮西八郎為朝)弓を
  引かんと欲す。景能ひそかにおもへらく、貴客は鎮西より出でたまふの間、
  騎馬の時、弓いささか心に任せざるか。景能は東國においてよく馬に馴るる
  なりてへれば、すなわち八男が妻手に馳せ廻るの時、縡相違ひ、弓の下を越
  ゆるに及びて、身に中るべきの矢、膝に中りをはんぬ。この故實を存ぜずば、
  たちまちに命を失ふべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。
  
 保元合戦の折、大炊御門の河原において鎮西八郎為朝と遭遇した大庭景能が、互いに騎馬であったことから咄嗟に為朝の妻手側(死角側)に馳せ、為朝の射撃を受けながらも致命傷にならず、もし妻手側に馳せ回るという故実を知らずにいたならば、確実に命を落としていただろう、と語ったものである。
 要するに、敵に弓手側を先取された場合、射撃を避けながら敵の死角へ移動するのである。これは右射と死角の固定化を示す貴重な証言である。
 さらに『平家物語』で、藤平真光が和田義盛から馬上の戦い方について問われ、

  軍に合ふは、敵も弓手我も弓手に合はむとするなり、打解弓を引くべからず。

と答えている。簡単にいえば、弓手側の射撃に集中せよ、ということである。
 実戦には故実や作法が存在し、それが敵味方に共有されていたのであれば、右射だけで戦闘を成り立たせようとする意識が働いていたとしても不思議ではない。しかし、標的の動きが予測できない狩猟では、状況によっては実戦より難しい面もあろう。
 たとえば、高句麗古墳・舞踊塚の狩猟図では、逃げる鹿をすれ違いながら狙っているが、射手は上体を後方に捩じりながらの左射である。こうしたフレキシブルな弓射が、高句麗の狩場では頻繁に行なわれていたに違いない。
 日本の狩猟における射技とその意識については、、『吾妻鏡』建久四年五月二十七日条にみえる、富士の巻狩りで源頼朝の面前、大鹿を射損じてしまった工藤景光の言葉が参考になる。

  景光弓を棄て、駕を安んじて云わく、景光十一歳より以来、狩獵をもつて業
  となす。しかうしてすでに七旬餘、いまだ弓手に物を獲ずということなし、
  しかるに今心神惘然として、はなはだ迷惑す。

 景光は、私は11歳から狩猟を生業として70歳余となるが、これまで弓手に狙った獲物をはずしたことはなかった、今はただ途方暮れている、と真情を吐露し、さらに『吾妻鏡』には、「晩鐘の程、景光発病す」とあり、その落胆ぶりが目に浮かんでくる。 
 実は頼朝に指名されながら、その面前で射損じてしまった者は他にもいて、『吾妻鏡』天福元年五月二十七日条、

  故右大将家(頼朝)下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭勢子の内に臥す。
  幕下殊なる射手を撰びて行秀を召し出で、射るべきの由仰せらる。よって
  厳命に随ふといへども、その箭中らず、鹿勢子の外に走り出づ。小山四朗
  左衛門尉朝政取りをはんぬ。よって狩場において出家を遂げ、逐電して
  行方を知らず。
 
 那須野の狩りのとき、頼朝が突然現れた大鹿を下河辺行秀に射るよう命じたが、あろうことか行秀の矢は外れ、代わって小山四朗左衛門尉朝政がそれを射止めた。行秀はその場で出家し、それきり行方不明になったという。
 『吾妻鏡』は行秀の心の内を伝えていないが、逐電して行方知らず、とあれば、察するに余りあるだろう。
 この時代、狩場で弓箭を帯びることを許されたのは、弓馬の達者と認められた一部の者たちだけであった。「弓馬の家」を標榜する彼らにとって、狩場はまさに晴れの舞台であり、主君に指名され獲物を射止めるのは重要な儀式でもあった。が、射外せば一瞬にしてその名誉を失うことになった。
 また、『吾妻鏡』にみえる諏訪盛澄や河村義秀の事件なども同様、彼らに課されたのは多彩な射技ではなく、あくまでも弓手の正確さであった。
 時代は下るが、犬追物ではこんな話も伝わっている。ある射手が犬を追い詰め、妻手側に上体を捻る右射(武田伝では妻手筋違などと呼ばれる)で狙いを定めたが、思い止まって弓を引き戻し、観ていた人々はその気概に感心したという。弓手側の射が最上とされていたことの証左である。

妻手筋違.jpg

 極論すれば、日本の弓術は右射に特化して発達し、妻手側の射はむしろ敬遠されてきたといえる。
 日本の弓道家にはすでに常識だが、和弓の作りは、その弦道り(弓本体に対する弦の位置)が、弓の腹側から見て弣付近で右端に寄るようになっている。これは矢を右に置く右射を前提にしているからである。
 しかしこの右に偏った弦通りで左射を行なおうとする場合、矢の向きが左右で異なるため、射分ける際にその補正が必要になる。さらには精妙な手の内や弓返も、左右の再現性という面では不利にはたらいてしまう。これらの問題は、射の精度を求める上で決して小さなことではない。
 一方、朝鮮弓などのように、弓の中心線と弦道りが重なるものは、番えた矢の向きが左右均等で、射の左右切り替えが比較的容易である。左右射にはシンプルな弓具と射法が適しているのである。
 とすれば、上野車坂下での的中結果が気にかかる。寛延の記録には単に中り外れだけではなく、具体的に「歩射騎射とも矢所あらし」とある。褒め言葉ではない。中った矢が的面上で不規則に散らばっており、射の精度が悪いことを意味している。左右射という特殊な射技に少し意地悪な気がしなくもないが、「弓が短いためならん」と付け加えていることからすれば、その難しさは一応考慮されていたのかもしれない。

 第11次使節に随行した書記・金仁謙が、明和元年(1765年)3月6日に行なわれた射芸の的中を詳しく記している。そしてこれが、朝鮮通信使による最後の射芸であった。
 
  初六日、射芸が催され 我が一行からも八名を選抜 
  関白の御殿へ遣わす 島主の采配で行なわれるが 
  各州の太守も集まっていた 金相玉は
  布の的に四度、藁の的には五度命中 柳達源は
  布藁共に三度ずつ 任屹は
  布と藁各四度命中 壮士軍官林春興は
  布藁共にすべて命中 金応錫は
  藁三度、布はすべてはずし 曹信は
  藁を一度はずしただけ 馬上才の鄭道行は
  藁に四度命中、布は当たらず 朴聖迪は布が三度
  藁の的には五度命中したという 金応錫は己の不成績に腹を立て 
  病みつくほどに気落ちしたとか 可笑しくもあり哀れでもある 

 布的は騎射、藁的は歩射で、8名の射手が各的5本ずつ射た。左右射であったかどうかははっきりしないが、前例に倣ったはずである。
 すべて的中させた林春興は、まさに軍官としての面目躍如だが、的中がふるわず自責の念にさいなまれた金応錫は、実はこの日、病気で欠場した杲榕という者の代役であった。彼に同情せずにはいられない。弓の伝統は違っても、一射に込める思いに違いはないのである。
 アジアの弓文化を象徴する左右射は、古来、練達の指標となる究極の射技として受け継がれてきた。それが朝鮮通信使によって、おそらく初めて、日本の地で紹介されたのである。
 本来ならば、そこに評価の目を向けるべきであったのかもしれない。



【主要参考文献】

『通航一覧』大正二年 国書刊行会 
真鍋祐雄『朝鮮人騎射之記』寛延元年 国立公文書館内閣文庫 
J・シャルダン 岡田直次訳注『ペルシア見聞記』1997年 東洋文庫
前田巌夫『武経射学正宗 武経射学正宗指迷集 通釈』昭和49年
濱口富士雄『射経』昭和54年 明徳出版社
沈括 梅原郁訳注『夢溪筆談1』2007年 東洋文庫
仲尾宏『朝鮮通信使と徳川幕府』1997年 明石書房
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』1996年 講談社選書メチエ
近藤好和『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』1997年 吉川弘文館
金仁謙 高島淑朗訳注『日東壮遊歌 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』1999年 
東洋文庫
永原慶二監修 貴志正造訳注『全譯 吾妻鏡(二)(四)』昭和51年 新人物往来社


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第5回 高麗王杯 馬射戲 MASAHI 騎射競技大会

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平成28年(2016)は、続日本紀・霊亀二年(716)の高麗郡建郡から1300年にあたります。
今回の「馬射戲」は百年に一度のお祭りです。

皆さまのお越しをお待ちしております。


ユネスコ世界記憶遺産<武藝図譜通志>

今年5月、朝鮮王朝の武芸書である「武芸図譜通志」(1790)が、ユネスコ世界記憶遺産に登録されました。
http://chosonsinbo.com/jp/2016/08/06riyo-jjj01-2/

Posted by 안문자 on 2015年7月15日


Posted by 안문자 on 2015年6月9日



馬冑と高句麗の馬上武芸 Ⅰ

馬冑1.jpg

既に断絶した古代東アジアの馬上武芸のすがたについては、古墳から発掘された武具や馬具、壁画などを参考に、当時の社会的背景や文献、さらに現在の武術や馬術などとすり合わせながら推察する以外に手だてがなく、そこに費用的な問題も重なって、全容の解明と復元への道はきわめて険しい。そうしたなかにあって、韓国の韓民族伝統馬上武芸撃毬協会は、成功させている数少ない団体である。
私にとって、高句麗重騎兵の槍を主とする馬上武芸と装備の復元は、「馬射戲」と並ぶ非常に重要なテーマである。その理由の内に、日本の馬冑の存在がある。

1957年、和歌山県・大谷古墳(5世紀後半)の発掘で、東アジアで初めて馬冑が出土した。
馬冑とは馬の頭部に被せる鉄製の冑のことで、通常、馬の首、胴体、脚を覆う馬鎧とともに装着される。この馬冑と馬鎧は、古代東アジアの北方騎馬文化圏における、重騎兵の典型的な装備である。
もともと馬冑の存在については、発掘以前から高句麗古墳の壁画に描かれていたことで知られてはいたが、驚くべきことは、その実物が壁画のある朝鮮半島ではなく、海を隔てた日本で見つかったことである。

大谷古墳での発見から23年後の1980年、二つめの馬冑が韓国の釜山市・福泉洞10号墳から出土し、続いて1986年1月、三つめの馬冑が韓国の慶尚南道陜川郡・城山古墳群から出土した。
一方、1894年に埼玉将軍塚古墳から出土した3つの鉄片が、1988年、日韓の研究者らによって馬冑の部材と認められ、検証の末、形状に共通点が多いと判断された福泉洞10号墳のものを参考に復元された。その馬冑は現在、埼玉県行田市のさきたま資料館に展示されている。

写真:模造 馬冑 大谷古墳出土 東京国立博物館蔵



バーレーン王国国交樹立30周年記念流鏑馬 NEWS

2002年、バーレーン王国(Mamlakat al-Bahrayn)での国交樹立30周年記念流鏑馬。現地でのNewsです。
当時、故金子家教先生もお元気で、馬にも時々乗っておられました。
一番最初に出てくる射手が私です。上体を真直ぐにして頭を揺らさない、" 立透し(たちすかし) "という日本伝統馬術の乗法です。

懐かしい映像で、そのうち全編公開したいと思っています。バーレーン王国内務省騎馬警官隊による馬上武芸の演技も、これ以上に見ごたえのある内容です。



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馬上、手前が金子先生で、奥が私です。


Харваач !  XXXVII

横浜.jpg

マギーが日本を離れる日、成田空港まで見送りに行った。
最後に成田エクスプレスで行きたいというので、私も付き合った。秋の穏やかな日で、朝早くに横浜から乗った。彼女にとってこの列車は特に思い出深いのだろう、車中、留学時代のことばかり話した。
彼女が初めて日本の地を踏んだのは高校2年生のときで、都心に向かう成田エクスプレスに乗った。

「高校2年といえば、まだ16か17だね、ひとりで不安だったろう?」

彼女は微笑んで、小さく頷いた。

「5月で田圃が青々としていて…、窓の外を見て驚きました、日本は都会だと思っていたのに、なーんだ、モンゴルとたいして変わらないじゃない、そう思いました」

彼女は懐かしそうに笑った。

それからは思い出すままに話した。
ホームスティで日本のお母さんにお味噌汁の作り方を習ったこと。優しかった日本のお父さんが数年前に亡くなったこと…。
そして、同じ大学で仲の良かった青年が、彼女が留学を終えて帰国のとき、なぜか見送りに来てくれなかったこと。

「彼が、マギーがモンゴルに帰っちゃう、そう言ってすごく落ち込んでいたそうです、あとで日本の友達から聞いて…」
「彼は君のことが本当に好きだったんだね…」

マギーは応えず、窓の外へ目を向けた。
留学時代の話もそこで止まって、ふたりで黙ったまま、流れていく秋の景色を眺めていた。
ふと、彼女の顔に目を戻すと、その大きな瞳に涙をいっぱい溜めていた。彼女はそれがこぼれても拭おうとせず、静かに、じっと遠くを見つめていた。

私たちは再会の約束をして、空港の出発ロビーで別れた。
彼女はアメリカへ旅立ち、それからしばらくして、アメリカ人男性と結婚した。
結婚後も、アメリカとモンゴルの親元を行き来していたが、あれから再び日本に来たという話は聞かない。そして、生まれたばかりの娘の写真を最後に、便りが途絶えた。

私はマギーとの僅かな日々で多くのことを学び、それらはやがて信念に変わっていった。
あの涙のわけが、日本のお父さんが亡くなったことの悲しさだったのか、それとも、心を交わした日本の青年への想いだったのかはわからない。
でも彼女は私に、あれほど日本に思いを寄せてくれたモンゴル人がいたことを、そして彼女のような人は今もきっとどこかにいて、さらに耳をすませば、他の国の人々のなかにも数え切れないほど見つけられるだろうと、気づかせてくれたのだ。

成田空港・第1ターミナルの出発ロビーは、セキュリティチェックから出国審査へ進むとき、エスカレーターを降りながら、見送る人、見送られる人、最後にもう一度、互いの姿を見ることができる。
私はガラス越しに、足下に消えていくマギーに小さく手を振った。

そのとき彼女がふざけて ―

私にむかって、やさしく唇をとがらせた。
その顔が可笑しくも可愛らしくて、彼女のことを思い出すたび、
瞼に浮かんでくる。




Харваач ! XXXVI

山下公園.jpg

成田空港・第1ターミナル国際線到着ロビーの電光掲示板が、マギーが乗る便の到着を示していた。しかし、同じ便に乗っていたとみられるモンゴル人たちが消えても、彼女は出てこなかった。前のこともあったので、

“来ないのかな…”

あきらめかけたとき、ふと横を見るとマギーが立っていた。
が、沈んだ顔をしていて、久しぶりの再会を喜びあう雰囲気ではなかった。“どうしたの?”と聞くと、自分の旅行バッグを取り違えられたという。
幸い、間違えた相手と連絡が取れて、今日中に駐日モンゴル国大使館に届けてもらうことになった。

私の車で渋谷にある大使館へ向かった。代々木公園のわきに車を止め、地図を片手に場所を探した。着いたのは夜、正門は閉まっており、駐車場から中に入れてもらった。守衛に指示された広い部屋に入ると、カジュアルな身なりをした中年のモンゴル人男性が二人、小さなテーブルを挟んでくつろいでいた。傍にマギーの旅行バッグが置かれていたが、間違えたのは彼らではなさそうで、彼女は自分の旅行バッグを手に取ると、彼らと言葉を交わすことなく部屋を後にした。

数日後、マギーを横浜に案内した。中華街で食事をして、山下公園を歩いた。
偶然にも、山下公園でモンゴル関連のイベントが催されていて、観光案内や物産などの店がテントを連ねていた。マギーはモンゴル語でスタッフたちとの会話を楽しみ、私は羊肉が苦手だったが、ホショルをひとつ買って二人で分けた。

山下公園を出て歩いていると、不意にマギーが言った。

「女性を車道側に立たせていいんですか?」

“あ、やられた!”と思った。
当時、モンゴルには歩行者用の横断歩道や信号機が無く、道路の横断が非常に危なかった。行き交う車の間を横切るのは慣れと度胸が必要で、日本の道路に慣れきった私はいつもモタモタして、マギーに手を引かれるように渡ったものだ。
だからつい、うっかりしていたのである。彼女もそれをわかっていて、わざと言ったようだ。

マギーがアメリカへ行く目的は、実は仕事を探すためだった。
その優れた能力やキャリアも、今後、日本やモンゴルで生かすことができないと判断したらしい。

「私、日本と自分の国を捨てるんです…」

彼女は吹っ切れたように言った。



Харваач ! XXXV

Miat.JPG

“もうこれ以上待てない…”

私はフロントにタクシーを呼んでもらった。
タクシー代として日本円を両替するとき、空港まで幾らぐらいかと聞いた。

「1,000トゥグリグです」

さいわいタクシーはすぐに来て、それに飛び乗った。

“寝坊か?まさか事故に遭ったのでは?それとも…、いや、彼女はそんな人じゃない”

悪い憶測が、頭の中をグルグル駆け巡った。
なんとか気持ちを落ち着かせようとしているところへ、陽気なタクシードライバーの男が、聞き取りにくい英語でおかまいなしに話しかけてくる。そして前を指さしながら、

「ドゥ、ユー、ゴー、トゥ、ベンジョ?ベンジョ?」

“え?便所に行くかって?朝早いからトイレを心配してくれているのか?
いまそれどころじゃないよ、ほっといてくれ…”

そう思いながら、男に “Don’t worry” と応えたが、同じことを何度も繰り返し聞いてくる。いいかげん鬱陶しくなって、

"だから!…”

今度は強く言い返そうとしたとき、ハッと気が付いた。

"あっ、この男が言うベンジョって、ベイジン、北京のことか!?”

男の発音も悪いが、私の聞き違いだった。

「オー、アイムソーリー!アイ、ゴー、トゥ、ナリタ!ジャパン!」
「オー!ナリタ!OK!OK!」

やっと話が通じて、二人でナリタ、ナリタと言いながら笑った。
が、そこでまたハッと気が付いた。

“しまった、この男が行き先を尋ねたのは、日本人かどうか確かめるためだ。
日本人と知って法外な料金を請求してくるにちがいない。空港まで1,000トゥグリグと聞いたが、はたして…”

男は終始ご機嫌なまま、空港へ着くと、

「1,100トゥグリグ」

当時、100トゥグリグは日本円で数十円、この差が日本人価格かどうかは微妙なところだが、おかげで少し気が紛れた。
私は、マギーが追いかけてきてくれるのではないかと、何度も振り返りながら出国審査へと進んだ。

帰宅して間もなく、マギーから、“見送りに行けなくてごめんなさい”と、詫びのEメールが届いた。今朝、急に体調を崩してしまったらしい。ともあれ、彼女が無事だったことと、再び連絡が取れたことに安堵した。

ちょうどこの頃、韓国を宗主国とする世界騎射連盟が発足し、私はそれに参画するため、世界中の騎射愛好家たちとの交流を始めていた。
韓国、モンゴル、ドイツ、フランス、アメリカ、ハンガリー、トルコ・・・、しかし、彼らとのやり取りはすべて英語でなければならなかった。
英語が苦手な私は、翻訳をマギーに頼んで、海外から送られてきたEメールを彼女へ転送した。彼女はいつも素早く返してくれたが、時々、訳文の最後に、

“この人、英語があまり上手じゃないわ”

と、一文付けてよこしたりした。それが彼女らしくて可笑しかった。
またあるときは、私から何かを感じ取ったのか、

“あなたはOpen Heartだから大丈夫よ”

ひと回りも年下の娘からそう励まされるのは面映かった。それはともかく、このときの彼女の助勢があったからこそ、現在の国際的な騎射文化活動があるといえる。

ある日、マギーのほうからEメールが届いた。
なんと、近々日本に来るという。アメリカにいる親戚を訪ねるつもりで、途中、日本に立寄って、世話になった人や友達と会うらしい。

“領事館を辞めたので、今後は日本へ行くことが難しくなるから、きっとこれが最後になるでしょう”

と付け加えられていた。私は言葉の意味を深く考えずに、軽く返事をした。

「マギーの都合がよければ会おうか」

そして彼女を成田まで出迎えに行った。



韓国SBS NEWS 馬射戲

일본 대회

Posted by 안문자 on 2015年12月4日

韓国・SBSが制作した馬射戲のニュースです。



NHK NEWS WEB 馬射戲

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去る、11月22日(日)23日(祝)、埼玉県日高市巾着田で開催された馬射戲の様子です。
馬射戲もNHK NEWSで取り上げられるようになりました。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151123/3603361.html

馬射戯.png



Харваач !  XXXIV

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帰りのタクシーのなかで、マギーが言った。

「私だって、お味噌汁つくれますよ」
「…へぇ、それはすごいね、えらいね」

私の気の無い返事にすかさず、

「モンゴル人のくせに出汁の味がわかるのかって、さっきそう言ったのに?」
「……、そんな言いかたしてないよ」

ブリヤートの龍女はやはり向こうっ気が強い。
もっともそうでなければ、彼女の語学力はここまで達し得なかっただろう。私がこの国で彼女を頼りにしているあいだ、そのちいさな逆鱗から目が離せないのは、課せられた義務のようなものだ。

「私、よく日本人に間違えられるんです、日本人からそうは見えないでしょうけど…」

ブリヤート人と日本人の血が近いことは前に触れたが、彼女の顔立ちなら、どこへ行っても日本人で通せるだろう。しかしそれは、一概にいいこととはいえないようだ。

彼女が以前、アジアのある国へ旅行した時のことだ。
失くし物をして困っていたところへ、地元の人が親身になって一緒に探しまわってくれたのだが、話しているうちに彼女が日本人でないことが知れると、その人は探すのをやめて、いなくなってしまったのだという。

「そのときの態度の変わり方がね、すごく極端で…」
「どうしてだろう?」
「…日本人なら、お礼してもらえるからね」

と、寂しそうに言った。

「日本人になりたいと思ったことある?」

マギーは答えなかった。今思えば、デリカシーの無い質問だった。

私はこの日以来、弓と馬のこと以外はマギーに任せることにした。
彼女の勧めで、博物館、遊園地、市場、伝統音楽、映画館などと、方々見て歩いた。

博物館では、彼女がかつて国の客人を案内したときのような解説付きで展示品を観て、映画館では、日本語字幕の無い(当然だが)ハリウッド映画を同時通訳してくれて、その知識や英語力に舌を巻いたものだ。

帰国の前夜、ザルチュードホテルの前でタクシーから降りるとき、

「明日の朝早いけど、空港までよろしく頼むね」

私はそう言って、使い残したトゥグリグ札をすべて、迎えのタクシー代としてマギーに渡した。

「え、こんなに?どうして?今度来たときに使えばいいのに…」
「いや、いつ来れるかわからないし、ほら、俺は“日本人”だから」

戸惑う彼女に冗談を言って、強引に握らせた。

翌朝、私は荷物を整えて、ホテルのロビーでマギーが来るのを待っていたが、時間を過ぎても、彼女は姿を見せなかった。



Харваач !  XXXIII

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帰りの車中、マギーは黙ったまま、一言もしゃべらなかった。
気分転換のつもりがかえって逆効果になってしまった。そもそも、彼女にとって弓も銃もたいした違いは無かったかもしれない。ともかく、その穴埋めのつもりで夕食に誘った。
ただ、なにを食べるかは、私のほうで決めた。

「和食ですか? 大好きです! ありますよ、お店」

和食と聞いて、マギーは目を覚ましたように喜んだ。
元教官の男と別れてタクシーに乗ると、彼女は運転手に行き先を告げ、後部座席から身を乗り出したまま、先を急ぐように前を見ている。

「領事館にいた頃、上司と一緒にモスクワに出張したんです、そこで日本料理のお店に入ったんですけど、お味噌汁がね、ぜんぜん出汁の味がしなくてがっかり…」
「出汁の味がわかるの?」
「わかりますよ!!」

マギーは大真面目だが、妙な会話だと思った。
ウランバートルのオンボロタクシーの中で、まさかモンゴル人から、モスクワの味噌汁の批評を聞くなんて、思いもしなかったからだ。

“世界って、案外狭いな…”

店に着いて、和服姿のモンゴル人の仲居さんに、マギーが特に好きだという鮪の握りと巻物をたのんだ。

「そうそう、今日一緒だった男の人が、彼、冬にまた来てくれないかなって、オオカミ
狩りに付き合ってほしいんですって」
「教官とオオカミ狩り?…冬のモンゴルも楽しそうだね」

光栄なお誘いだ、でもマギーは、

「冬のモンゴルは寒いよぉ」

その言い方が年寄りじみていて可笑しかった。
彼女が留学時代に世話になった、“日本のお母さん”の姿がふと目に浮かんだ。

「私はブリヤート人です」

店を変えて少しお酒が入ると、マギーは自分のことをいろいろ話してくれた。
両親の離婚、日本での留学生活、歳は私のちょうどひと回り下で、同じ辰年生まれだと。
そして思いもよらぬことが、彼女の口から飛び出した。

「今日、射撃場であなたが開いたパスポートを見てびっくりしました。
 私たちは同じ名前だったんです」

一瞬、何のことだかわからなかったが、彼女の本名は、モンゴル語で私と同じ“昇”を意味し、マギーというニックネームは、その頭文字からきている。
ちなみに、モンゴル語でも、“昇る”と“登る”は違う。

マギーの言葉は、見事に私の胸のど真ん中を撃ち抜いた。
幸い致命傷にならずにすんだのは、やはり、彼女が私には若すぎたおかげだ。


Харваач ! XXXII

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手続きを終えて外に出ると、自然の地形そのままの射撃場で、塀や柵が無く開放的
なのはいいが、どこからでも弾が飛んできそうで、なんとなく危なっかしい。
足元に大小様々な型の空薬莢が散乱し、所々堆積している。弾薬のリロードは考えに
無いようだ。

射線の傍に迷彩服姿の若いスタッフが一人、その横に置かれた長机の上には、様々な
銃器が並べられていた。
ハンドガン、ライフル、さらにRPG-7という対戦車ロケット砲まであった。
私は彼にライフルをオーダーした。

ドラグノフ。

正式名称は、Snayperskaya Vintovka Dragunova。その頭文字を取ってSVDとも呼ばれている。
旧ソビエト製のセミオート式狙撃銃で、前述のモシンナガン1891/30狙撃銃型の後継である。
制式採用は1963年、現在、ボルトアクション式のSV-98に更新されつつあるが、いまもって、東側諸国とその同盟国の代表的な狙撃銃である。
口径7.62mm、装弾数10発。有効射程距離600m。PSO-1という4倍率のスコープが標準でエンゲージされている。命中精度は1.04-1.06MOA。この値は他の狙撃銃と同等かそれ以下だが、もともと開発の狙いが分隊支援用であり、300m前後での連射と精度のバランスを重視している。その効果は、あの湾岸戦争における市街地戦で大いに発揮され、多国籍軍の脅威となったという。
しかし、私がいま手にしているものはずいぶんくたびれていて、長い間、酷使されてきたことが見てとれる。はたして、本来の精度を維持しているかどうか・・・。

射線から60-70mくらい先に、標的のコンクリートブロックや煉瓦、マグカップなどが雑然と並べられている。
迷彩服の若いスタッフが、紙箱からカッパーとゴールドに輝く真新しいカートリッジを取り出し、手際よくチャチャッとマガジンに詰めると、ニコッとして私に差し出した。

“あっ、それ、自分でやりたかったな…”

実は、マガジンにカートリッジを積めるのも楽しみのひとつだったのだ。しかたなく、受け取ったマガジンを銃に装填し、ボルトを引いて初弾をチャンバーに放り込んだ。
全長が120cm以上もある銃なので、とりあえずプローンで構える。元教官の男が銃の脇に腰を下ろすと、人差し指と親指で輪を作ってみせ、

「スコープを覗くときは目線を真直ぐにして、レンズの端に影が出ないように」

とアドバイス。

“そうか、この人は私に教えるために一緒にきてくれたのか…”

ムンクさんの心遣いだ。
スコープのレティクルは一般的な十字型ではなく“∧”型で、その頂点に標的をあわせる。
また、レティクルの左下に、1.7m基準の距離測定用インジケーターがある。1.7mは大人の平均身長にあたり、それがどのくらいの大きさに見えるかで、標的までの距離を読む機能である。
最初の標的は、40-50cmほどの高さの白いコンクリートブロック。
その中心に照準をあわせたまま、トリガーを少しずつ絞っていく。トリガーは非常に重く、ストロークもかなり長い。
やがて唐突にハンマーが落ちた。大きな発射音とともに強烈なリコイル。
すぐに標的を確認するが、変化なし。弾は外れたようだ。続けて2射したが、結果は同じ。
サイティングとトリガーワークに確信があったので、迷わず、スコープのエレベーション・ターレットを回して上下方向の照準線を調整した。
それからは狙い通りに中った。左右方向の調整は必要なかった。
それにしても、前回この銃を使った者は、かなり遠くを狙っていたようだ。

分厚いコンクリートブロックは3発で粉々になった。
続けざまに煉瓦、マグカップを撃ち抜くと、さすがのマギーも驚きの声を漏らした。
元教官の男が小声で何か言った。マギーが、

「この人はすでに銃の訓練を受けています、って」

私が撃ち終えると、今度はマギーがAK-47という自動小銃を手に取り、私の真似をして、プローンで構えた。が、見るからにぎこちなく、銃を撃つのは初めてのようだ。
元教官の男が手取り足取り教えるが、初心者にこの銃この距離は難しかろう。
何発か撃ったが、案の定、一発も中らず、マギーは納得いかない顔で銃を返した。

“どう?俺のこと少しは見直した?”

心の中でそうつぶやいた。


Харваач ! XXXI

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ウランバートル郊外にある、モンゴル軍が管理する射撃場は、有料で一般の者も軍の銃を撃つことができた。もちろん、実弾である。
たまには趣向を変えてみようと、マギーにそこへ行くことを提案したのだが、あいにく、ムンクさんは所用があり、一緒に行けないという。代わりに、彼の狩猟仲間らしき、元モンゴル軍教官という人が案内してくれることになった。
いかにも教官らしい、背が高くがっしりした体格の、無口な紳士だった。

射撃場に着くと、事前の手続きのため事務所に通された。
実弾を扱うだけあって、そこはきちんとしている。申請書はモンゴル語と英語の表記なので、マギーが私の横で、記入をチェックしてくれている。
氏名、住所、パスポートナンバー、持病の有無など、必要事項を記入し署名した。
いかにも調子の良さそうな、事務員の男が手続きを進めている間、四方の壁に飾られた、モンゴル軍歴代の銃器の写真を眺めていた。
カラシニコフ、シモノフ、トカレフ……、当然だが、ほとんどが旧ソビエト製である。
そして一枚の写真に目が留まった。

モシンナガン1891/30 ―

ボルトアクションのライフル銃で、制式採用は1930年、今はアンティークの部類だ。
帝政ロシア(1721-1917)時代に開発された1891の改良型で、1944年の生産終了までに、多くの派生型が作られた。なかでもスコープを具備した狙撃銃型は、第二次世界大戦で活躍した旧ソビエトの名スナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコやヴァシリ・ザイチェフの手によって大きな戦果を挙げた。
射殺したドイツ兵の数は、パヴリチェンコ309人、ザイチェフ225人あるいは257人とも。
パヴリチェンコは、途中で銃をトカレフM1940というセミオートに持ち替えているが、その絶大な戦績から、女性では史上最も優れたスナイパーと称えられた。

「これ、ザイチェフの銃ですよね?」

写真を指差して、事務員の男に話しかけてみたが、私の発音が悪いせいで、彼は何のことだかわからない様子だった。それでも繰り返しているうちに、

「そうだ!ザイチェフだ!君は日本人なのによく知ってるね!」
「ええ、有名なスナイパーですから」

事務員の男は、感心したように何度も頷いた。
マギーが小さく口を挟んだ。

「映画かTVを観て知ったんでしょ?」

少し機嫌が悪そうだ。
ロシア語どころか英語もろくにできない人が、旧ソビエトの人物について学んでいるわけがない、と言いたげだ。
マギーの知識と語学力は確かだが、こういったマニアックなことは、私のほうが詳しいこともあるし、専門用語を並べて、かろうじて意思疎通ができる。
ただそれとは関係なく、彼女は自分をとばして話をされるのが面白くないのだ。
そんなとき、チクッと言った。

「もう通訳は必要ないですね」

だから、どんなマニアックな話でも、先ず彼女を通すことにしていたのだが、特に興味を引かれたときには、つい、うっかりしてしまうこともあった。
今思い返してみても、彼女は仕事に真面目で、いつも一生懸命だった。


Харваач ! XXX

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この馬の乗味は、なんとなく日本の木曽馬に似ている。
以前、武田流で射手を務めていた頃、紅葉という名の木曽系の牝馬がいて、流鏑馬に来る前は草競馬で鳴らしていたという、やはり脚の速い馬だった。
その紅葉のことをふと思い出した。
ちなみに、野沢謙による血液蛋白を指標とした遺伝学的解析によれば、日本在来馬すべての品種は、モンゴル馬に行きつくとみられている。

余談だが、純血の木曽馬は、かつての国策によって絶滅させられてしまった。
明治初頭から始められた我が国の馬匹改良は、日清戦争(1894-95)、義和団の乱(1900-01)などでの教訓から、特に軍馬において急務と判断され、以後、軍部主導で進められていった。
去勢法(1901)、種馬統制法(1939)が発布されると、外来種との交配がより徹底され、在来種の牡馬は、種馬として認められたもの以外は去勢が義務付けられた。
木曽馬の種牡馬は軍用に適さなかったため、そのほとんどが去勢されてしまった。
事実上の断種である。
その後急速に頭数が減り、純血の木曽馬は第三春山号(1951-75)が最後になった。
それでも第三春山号は、生前に700頭もの子孫を残し、戻し交配による木曽馬復活の礎となった。


小一時間ほど走り回ってゲルに戻ると、待ちかねたように大柄な中年の男が走ってきて、私が馬から降りるや否や、身のこなし軽くさっと乗り替わると、オールガを手に数十頭いる馬群の中に駆け込んでいった。

私が見たオールガは、長さが5mくらい、太さは直径3㎝くらい、材は楊である。
たしか、2~3本の木を繋ぎあわせていたようだったが、記憶が定かではない。
棹先に革紐の輪がつけられており、その輪に馬の首を通して捕まえる。
オールガを実際に手に取ってみると、軽くてとてもしなやかだ。ただ、これで本当に馬を止められるのかと、つい疑いたくなるほど華奢である。

男は一頭の馬に狙いを定め、執拗に追いかけている。
両手でオールガを構えているので手綱を使えないが、馬は乗り手が狙った馬を追うように調教されている。

追われる馬が、馬群の中を右に左に蛇行しながら、必死に逃れようとしている。が、やはり追う側の速さと動きのほうが、一枚も二枚も上手だった。
革紐の輪が馬の首に掛かると、オールガは釣竿のように撓った。馬はなおも抵抗する。
男は鞍の後橋を越えて馬の尻に乗ると、後橋で体を固定しながら強く引いた。
馬はようやく観念して止まり、そこへすかさず、他の牧民の男たちが走り寄ってきて、
馬を押えながら手際よく尻に焼き印を押した。私の傍らに炭火の入った缶が置かれており、中で焼きゴテの先が真っ赤になっていた。

さっきの少年も、目を輝かせながら一連の作業に見入っていた。
オールガで馬を捕える仕事は、乗馬の技術もさることながら、体力的にも極めてハードだ。しかしだからこそ、牧民の男にとって一人前の証となるのだろう。

私は最高の駿馬に乗る機会を得て、また、オールガの技術を間近で見て、帰りの車中もまだ興奮気味だった。
その勢いを借りて、助手席のマギーにさりげなく聞いてみた。
気になっていた、彼女の左手の薬指のことだ。

「君は結婚しているの?」

愚問は承知の上だったが、思わぬ答えが返ってきた。
マギーは左手をすっとかざして、

「幸せは右の薬指から入ってきて、左の薬指から出ていくというので、こうして止めて
 いるんです…」

胸先で指輪を抜き差ししながら、淡々と言った。
しかし、あとで人から聞いた話では、それは薬指ではなくて小指ではないか、という。

どちらにしても、彼女が言ったことは、質問の答えにはなっていなかった。

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(上) 在りし日の紅葉と私 (下) 馬用鞍 国立民族学博物館蔵


Харваач ! XXIX

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馬の脚が、まだかまだかとせかしている。
絆されて、ほんの僅かでも心を動かしたなら、こいつはすぐに飛び出すだろう。
ゲルの前の斜面をゆっくり下りながら、せめてもう少し足場の良いところまでと、懸命に心を殺した。

“そろそろいいだろう”

瞬間、馬は弾き出されたように駆けだした!
あっという間に帽子が飛んだ、が、かまっていられない。
スピードが上がるにつれ、地鳴りのような蹄の音も、後ろに下がっていく。

「チョォ!」

私は気持ちで負けるまいと、なおも馬を追った。
低くなだらかに続く丘の間を走っていくと、やがて前が広々と開けてきた。
このまま地平線を目指し、 “外海” に飛び出したい衝動に駆られた。
なにしろこいつは、一度で数十キロもの距離を走りきる脚と心臓の持ち主だ、私のお付き合い程度なら、べつにどうということはない。
しかし、うっかり遠くまで行って、万が一、放馬してしまったら厄介なことになる…。
思い直して、右手の最後の丘へ馬の鼻先を向けた。
馬は素直に方向を変えると、スピードを落とすことなく、斜面を一気に駆け上がった。
その力強さに舌を巻いた。

“こんなパワフルな馬に、子供たちが乗るなんて!”

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丘の上に立った瞬間、見渡す限りの平原が目に飛び込んできた。
この雄大な景色の美しさには、心のどこからか、幽かに湧いてくる懐かしさと、人の命なぞ、容易く吹き消してしまうような恐さがある。

すぐに少年が追いついてきて、手には私の帽子があった。

“その帽子、君にあげるよ”

そう手振りで示すと、少年は帽子を深々と被って、あごをクイッと上げた。
馬はもう落ち着いていた。私たちは並んで丘を下りて、地平線に向かってゆっくり進んでいった。
少年は鞍無しで股が痛くなるのか、時々馬のお尻に座ったりしている。

「いい馬だね」

馬を指差して、親指を立ててみせた。
少年は笑顔で応えると、馬に「チュッ」と小さく声をかけて、その腹を軽く蹴った。


ナーダムの競馬

Заавал үз хэний ч хараагүй өнцөг... (Y) (Y) (Y)MNB-гийнхан маань "dron" ашиглаж ийм сайхан бичлэг хийжээ.

Posted by Г. Дамбаа on 2015年7月19日


モンゴル国営TVがドローンを使って撮影した、ナーダムの競馬。
スタートの様子はなかなか観る機会が無いので、貴重な映像だ。

ナーダムの競馬では、馬は最長でおよそ25~30㎞の距離を走らなければならない。
しかも、騎手を乗せてゴール地点からスタート地点に向かうので、コースを
往復することになる。
極めて過酷なレースで、なかには完走できない馬もいる。


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ゴールを目前にして、力尽きて斃れる馬。
その姿はまるで、あと少しでゴールだと、わかっていたかのようである。

寄り添う騎手、駆け寄る人たち。
馬が再び立ち上がることは無かった。





Харваач !  XXVIII

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馬乳酒と羊の塩茹でをいただいたあと、ご主人自慢の馬に乗せてもらうことになった。
家の中に飾られている、ナーダムで授与された数々のメダルが、馬の調教師として相当な実力者であることを物語っていた。
ゲルの外に出ると、中学生くらいの年頃の少年が、私が乗る鹿毛馬に鞍(イメル)を付けてくれていた。鞍は前橋と後橋が反り立っているモンゴル伝統の物だ。
それはいかにも仕事用といった感じで、あちこち角がすり減って色も剥げている。

私は勧められた馬乳酒を断ることができず、すっかり酔ってしまっていた。
浮いた足で馬に跨ると、少年が腹帯を増し絞めしながら何か言い残し、別の鹿毛馬のところに走っていった。私と一緒に行くようで、自分の馬にハミを噛ませると、さっと裸背に跨った。マギーが心配そうに、

「この馬、速いから気をつけて、って。ナーダムで優勝したことがあるんですって」
「えっ…!?」

一瞬ドキッとしたが、ナーダムで勝った馬に乗れるなんて滅多にない機会である。
急いで酔いを醒まそうと、頸をまわして気を取り直し、手綱と一緒に鬣を少し取った。

ナーダムの競馬は、馬齢別に走る距離が決められており、およそ15km(2歳)~30km(6歳以上)の長距離で速さを競い合う。
世界的に見ても、馬の体力面で特に過酷な競馬で、騎手を務めるのも、馬を御せて体重の軽い10歳くらいまでの子供である。もちろん、馬も脚の速さだけでなく、卓越した持久力を備えていなければならない。
競馬の勝敗を決めるのは、馬が生まれながら持っている能力が50%で、あとは調教にかかっているという。調教師にとって腕の見せどころだ。

調教はまず、馬群の中から素質のある馬を選び出し、明け方から日中は繋ぎ留めたまま水だけしか与えず、夕方から夜にかけて、都度、必要な距離を走らせる。それが終わってから草を与える。さらに、馬の状態と気質、気候の変化などを注視しながら微調整する。この辺りに各々家伝の秘訣があり、ナーダムの時に馬体と気性が最高の状態になるように仕上げていく。
こうして絞り上げられた馬は、一見して別格であるのがわかるほど、精悍な雰囲気を漂わせている。それでも馬体が小さいこともあり、サラブレッドなどを見慣れた目には頼りなく映るようだ。

“こんなに小さくて、乗って大丈夫なのか?ちゃんと走れるのか?”

日本の乗馬愛好家が、モンゴル馬を前にして馬主に問うと、こう返ってきたという。

「マラソン選手で、体の大きな人がいますか?」

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撃毬

Posted by 안문자 on 2015年6月9日

Харваач ! XXVII

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“おれはいったい、なにをやっているんだか…”

自分に嫌気がさしてきた。でも足は止まらない。
そのインターネットカフェは、国営デパートと国営サーカスの劇場を結ぶ道沿いにあり、日本人経営で有名な、サクラベーカリーの並びにある。
店に着いたが扉は閉まっていた。ノックしてみたが、中に人の気配は無く、今日はもう閉店したようだ。残念ながら、中に入って思い出に耽ることは叶わなかった。
そこからホテルまで一時間ほど歩いた。部屋に入るなりベッドに荷物を放り投げ、自分もそのまま倒れ込んだ。

そういえば、彼女と初めて会ったのは2年前、このホテルのロビーだった。
私の通訳として、ムンクさんに連れられてきた。簡単な挨拶を交わした。
名前は、マギーといった。

「 ― よろしくお願いします」
「ミヤガワです、よろしく」

ムンクさんとマギーは、話しぶりから旧知の仲のようだった。
だとすると、ウヌルさんもマギーのことをよく知っているはずなのに、なぜかウヌルさんの口からそのことが漏れてこない。

話は飛ぶが、マギーとウヌルさん、二人はとても優秀な通訳だが、それぞれ得意分野がある。
あくまで私の印象だが、学術的、政治的なことは元領事館員のマギーで、モンゴルの伝統的なことや暮らしについては専業主婦のウヌルさんだ。
のちにマギーは、領事館員時代の著名人とのエピソードをよく話してくれた。が、実をいうと、例の私の女物のデールは彼女が市場で選んでくれたもので、ウヌルさんだったら、まずそんな間違いはしない。

マギーと最初に出かけたのは、ウランバートル郊外、遊牧民のお宅だった。
9月初旬のちょうど繁忙期で、ゲルの傍らでは牧民の男たちが、集めた馬を一頭一頭、オールガという馬採り棹で追っていた。その家のご主人と奥様が私たちを迎えてくれた。
ゲルの中に通され、馬乳酒がふるまわれた。馬乳酒とは文字通り馬の乳から作られる酒で、モンゴルでアイラグという。色は乳白色で、乳酸発酵させて作るため酸味があるのが特徴だ。アルコール度数は低く、1°~3°くらいだそうだ。
私は下戸なので、どんなに弱くとも酒と名のつくものは苦手なのだが、せっかくだからとほんの少し試してみた。ピリッとした酸味とかすかなアルコールが口の中を刺激した。
味はクセや臭みが無くさっぱりとしている。

「あ、これ、カクテルにしたいね」

もう少し甘くすれば、私にはずっと飲みやすいものになる。
冗談半分だったが、マギーは聞くなり目を丸くして、

「えっ!?馬乳酒をカクテルにするの?そんなこと言ったの、あなたが初めてです」

よほど意外なことだったのか、その後も時々思い出しては同じことを言って、クスッと笑った。


Asian Martial Arts Commission

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武芸を通じて、アジアの国々と人々を一つに。
アジア人であることを、心の底から誇りに思えるように。


Харваач ! XXVI

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ウランバートルの街が近づくにつれ、道が舗装路になり、店やガソリンスタンドもポツポツと現れはじめた。やがて車が街に入り、

「ムンクさん、ここでいいよ、ありがとう!」

私はホテルではなく、街の中心地にある国営デパート(現在はノミンデパート)の前で降ろしてもらった。
明日はもう帰国なのだが、土産などの買い物がまだ残っている。早朝の便なので、二人には早めに休んでもらうために、ここで別れることにした。
ウヌルさんも車から降りてきて、彼女にしてはめずらしく真顔でしんみりと言った。

「今日はありがとう、フスタイへ連れて行ってくれて…、楽しかったよ」

明日の朝、空港まで私に付き添って彼女の仕事は終わり。
一緒にあちこち観てまわるのは今日までだが、別れの挨拶はまだ早かろう。

「いや、ムンクさんのおかげだよ。こちらこそありがとう、付き合ってくれて」

通訳無しの買い物は少し心許ないが、すっかり眠りに落ちているエルデネのことも気にかかる。
日暮れまでまだ時間もあるし、最後の日ぐらいひとりで“冒険”してみるのもいいだろう。

国営デパート前の大通り沿いにある土産物店には、モンゴルに来たときは必ず寄ることにしている。最近、店の中も小綺麗になったが、その分、商品もありきたりのものが増えた。以前は年代物の銀製品や鐙、鏃など、珍しい骨董品がごろごろあって結構楽しめた。
なかでも驚いたのは、旧日本軍の軍刀まで並べられていたことだった。軍刀は柄や鞘、鐔などといった拵はすでに失われており、所々に赤錆が浮いた刀身のみで、むき出しになった茎にそれぞれ日本人の名が彫られていた。おそらく元の持ち主であろう。

そういえば、このウランバートルの街は、第二次世界大戦後、旧ソビエトによって当地に抑留された日本人捕虜が造ったと聞いた。スフバートル広場に隣接するオペラ劇場などがその象徴的なものだ。
しかし、過酷な強制労働のため、1945年~1947年のたった2年間で、抑留されていた約12,000人のうち約1,600人が命を落としたという。土産物店でみた軍刀は、彼らが遺していったものに違いない。
現在、ウランバートル北部にあるダンバダルジャー日本人慰霊碑のほか、モンゴル国内に慰霊碑が点在している。

ところで、ムンクさんの祖父と父は第二次世界大戦当時、モンゴル人民共和国(1924-1992)の軍人として日本軍と戦ったそうだ。
詳しいことは聞きそびれたが、旧ソビエトが1945年8月9日に日本に対し宣戦布告、それに続くかたちで、モンゴル人民共和国が宣戦布告したのが8月10日だから、駆りだされた戦場はおおむね、満州国か今の内モンゴル辺りだ。
私の祖父は海軍で太平洋方面だったので、ムンクさん一家と直接的に銃火を交えていないことは幸いだったが、かつては敵同士であっても、今ではお互いの孫たちが、こうして冗談を言いながら一緒に遊んでいる。
このことだけでも、国と国、人と人との争いというものが、いかに愚かで馬鹿げたことであるかがわかる。

あらかた買い物が済むと、自然と私の足が、あのインターネットカフェの方へ向いた。



Харваач ! XXV

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ビジターセンターに戻る途中、見晴らしの良い場所に車を止めて、持ってきたパンとハムで簡単な昼食をとった。
モンゴルのパンはどれも硬くてボソボソで、あまりおいしいとはいえないが、反対にハムやソーセージは抜群においしい。そこは肉を主食とする騎馬遊牧民族のセンスだろうか。ハムはムンクさんが数ある中から選んで買ってくれたもの。味わいながらムンクさんにあらためて礼を言うと、ウヌルさんが私の耳元でコソッと、

「もっとおいしいのがあるのよ」

まぁ、どこの国も女性は食べ物にうるさい。

ビジターセンターでナドメッドさんに別れの挨拶をし、フスタイを後にした。
私はタヒを見るという目的を果たしたはずなのに、なぜか未だ物足りなさというか、空しさみたいなものを感じていた。そもそも、どこまで本気でタヒを見たかったのか…。
ウランバートルに戻っても、報告すべき相手はもういない。あのインターネットカフェでの出来事を思い返して、

“これで気が済んだだろう…”

自分自身にそう納得させるほかなかった。

傾きはじめた陽の光が、広大な大地の寂しさをより際立たせている。
あいかわらず単調な景色が続く中、時おり、白いゲルと家畜の群れが現れては後ろに流れていった。
ちなみに、ゲルとは遊牧民の移動式住居のことだが、ほかにパオとも呼ばれている。が、実は、パオというのは中国人からの蔑称なのだそうだ。包物という意味で、“あんなのは家とはいえない”という含みがある。だからこの地でパオは禁句である。

車中の静かさにふと気が付けば、ウヌルさんもエルデネも寝てしまっている。
長距離ドライブで疲れたのだろう。聞こえるのは、窓から入る風の音、ディーゼルエンジンの音、乾いた地面を蹴るタイヤの音。
しばらくして、さすがにムンクさんも沈黙に耐えかねたのか、どこかのゲルで飼われているのであろう犬をみつけて、

「オオカミ!オオカミ!」
「えっ!?ムンクさん、ストップ、ストップ!」

私はすっかり真に受けて、あわてて“オオカミ”にカメラを向けたが、

「キヒヒヒ」

ムンクさんの意地悪そうな笑い声で気が付いた。
いつの間にか起きていたウヌルさんも、後ろで笑いたいのを堪えている。
私はムッとしたふりをして、

「まったくもう…」

味を占めたムンクさん、それからも犬を見つけては、

「オオカミ!」

そのたび私は、「ワォ!」「はいはい」などと、適当に相槌を打った。

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私のカメラに捉えられた“オオカミ”?

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武士の道 人の道

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鎌倉・扇ガ谷にある海蔵寺。
ここに、私の弓馬の恩師・金子家教先生が眠っている。
7回忌にあたる今年、旧友の案内でお墓参りに。

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生前お好きだったスイカを御仏前にと、海蔵寺近くのご自宅兼教場「平安居」にも
寄らせていただいた。
が、真新しい「武田流弓馬道教場」の看板とは裏腹に、庭の雑草が伸び放題。
安土の手入れも、どのくらいしていないのか…。

“まったく…、これだから先生に呼ばれてしまうのだ”

先生、時間が取れるようになったら、また草刈りに来ましょうか。

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“快馬は鞭影を見るや正路につく”

帰り道、ふらっと立ち寄った古本屋で、先代有鄰先生(家教先生の父上)の著書を
見つけた。今となっては希少本だ。出来すぎた偶然だが、事実である。
実は、数日前にも同じ本を手に入れたばかり。さらに、今回のものは署名がされており、

鞭影 金子有橉 (花押)

とある。
「鞭影」は、有鄰先生が特に好んでお使いになられていた語である。
墓参の土産として、この暗示を肝に銘じておこう。


あらたな試み

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国際武道大学 体育学部武道学科 教授 松尾牧則先生と。
松尾先生は、本大学の弓道部部長・監督であり、また、国際的な弓道活動で、
いつも世界中を駆け回っておられる。
私が、松尾先生と初めてお会いしたのは【第1回世界伝統弓術大会】(2007年・韓国)
である。

今回訪ねたのは、日本騎射協會への協力をお願いするため。
もちろん、ご快諾いただいた。
松尾先生とのコラボはとてもワクワクする。ぜひとも実現させたい。



Харваач ! XXIV

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“タルバガンのお話”が意外と早く終わってしまったので、話題を探して頭のなかをグルグルさせていると、ムンクさんが急に車のスピードを落として、無言のまま右手の丘を指差した。その先に、数頭の馬らしき姿が見えた。

「あっ、タヒだ!」

まだ確かなことはわからないのに、思わず声が出た。
直線距離にしておよそ300m。10頭ほどの群れで仔馬も連れている。
車が止まるや否や、私とエルデネは飛び出して先を争うように走った。

“できるだけ近くまで行ってみよう”

しかし、谷のように深く入り組んだ窪地が、私たちの足を止めた。
まだ大分離れていたが、馬は写真で見たタヒと相違無かった。
タヒの群れは、こちらを気にする様子も無く、時折頭を下げては草を食み、悠々と歩いていく。のんびりとしたその姿は、普段目にする馬たちと変わらない。
発見者のプルジェワルスキーは、タヒの特徴について次のように記している。


 外観では、プルジェワルスキ―馬の背丈は低い。頭は比較的大きく、耳はロバと比べると短い。たてがみは短く直立していて、暗褐色で、額にたれるたてがみの毛房はない。背中の帯状の立縞もない。尻尾の上半部はもじゃもじゃで長い毛はなく、下半部だけが馬のように長い黒い毛で被われている。(中略)頭部はニンジン色を帯びているが、鼻づらは白い。体毛(冬の)は長く、柔らかく波打っている。尾の上部の毛は薄く下部は普通の馬のように毛が垂れている。
 キルギス人が「ケルタグ」、モンゴル人が「タヒ」と呼んでいるこの新種は、ジュンガリアの最も不毛の地にのみ棲んでいる。ここでは、ケルタグは経験豊かな老雄馬の監視のもとに、小さな群(五-十五頭)をなして棲んでいる。

        プルジェワルスキ― (田村俊介 訳) (1982)『中央アジアの探検』白水社。


プルジェワルスキ―はさらに、斑模様の個体を見たこと、また、かつてヨーロッパとアジアに広く分布していたが、すでに中央アジアのごく一部の地域にしか生息していないことを強調している。
ちなみにジュンガリアとは、現在の新疆ウイグル自治区、アルタイ山脈と天山山脈に挟まれた地域である。

私が夢中でタヒをカメラに収めていると、後ろからふいに声が掛かった、ナドメッドさんだ。
あとからついてきたウヌルさんがすかさず、

「そろそろ戻りなさいって…」

理由は、タヒを人に慣れさせないためだという。
ナドメッドさんは公園のガイドであり監視員なのだ。ここのタヒは、もともと動物園で暮らしていたものとその子孫である、真の野性化には、まだまだ時間がかかるようだ。
私が未練がましく振り返りながら歩いていると、ウヌルさんが私とエルデネに、

「車まで競争したら?」

エルデネはかけっこが大好きなのだそうだ。

「よーい、ドン!」

私が日本語で合図すると、エルデネはうれしそうに“キャッ、キャッ”と声を弾ませて走りだした。

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ナドメッドさん(上) エルデネ(下)


ナーダムの騎射 Ⅰ

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私が“騎射人生最後の目標”と定めていたのは、モンゴル・ナーダム祭において、
騎射を再現することだった。
もともとナーダムでは古くから騎射競技が行われており、文献では匈奴の時代に遡る。
しかし19世紀、清朝の政策で禁止されたのを契機に断絶した。

忘れもしない2009年7月10日、フドル君をはじめ弓射競技関係者の尽力により、
ナーダムのエキシビジョンとして騎射が復活した!
現在も、弓射競技のオープニングセレモニーとして行われている。

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写真は本番前夜、舞台となる弓射場で馬の調整中のところ。


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