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初詣
高麗神社へ初詣に行った。
例年なら旧暦をみて初詣とするのだが、この日は“高麗王との謁見”もあり、
今年は一足早い参詣となった。
15日とはいえ、境内は多くの初詣の人たちで賑わっていた。
私は流鏑馬に携わっていることから、各地の神社に参詣する機会が多い。
そこで感じたことに、必ず願い事が叶えられる神社、というのがある。
信じられないだろうが、本当である。
しかしその神社が誰にでも霊験あらたかか、というとそうではなく、
きっと、神さまと人の間にも縁というものがあって、内容や人によって
願い事が叶えられる神社が違うように思える。
私にはふたつ、願いが届く神社があり、
そこには毎年参詣を欠かさないようにしている。
そのうちの一社が高麗神社である。
モンゴルの草原で
国民総幸福量
ブータンといえば、先日国王夫妻が来日された折、国策として掲げる
国民総幸福量(GNH)が話題になった。それについて、
日経新聞11月18日付の“春秋” で触れられていたので、
引用させていただく。
【 内なる平和の光を得るのでなければ、
単なる見せ掛けの安楽と喜びは苦痛の種となる ―。
900年ほど前のチベットの詩人、ミラレパの詩の一節だ(おおえまさのり訳)。
意味はわかりやすい。心の平安が何よりも大切と説いている。
ミラレパはチベット仏教の四大宗派の一つ、カギュ派の聖者。同派はさらに多くの
支派に分かれていて、その一つを国教と定めているのがブータンだ。
「国民総生産(GNP)より国民総幸福量(GNH)を」。
物質的な豊かさ以上に精神的な豊かさを重んじる国として知られる。
ミラレパの精神が息づいている。
もちろん、GNHという考えは口にするのはたやすいが、具体化するとなると難しい。
1970年代に前国王が打ち出してから、ブータンでは研究が進められてきた。
成果の一端が2008年に公布された新憲法。「国土の60%以上を森林に保つ」ことや、
「伝統文化を守る」ことなど、具体的な目標を掲げている。
隣の大国インドの発展に引っ張られ近年のブータン経済は好調だ。
特に首都ティンプーの近代化は目覚ましい。ただ貧富の格差が広がったり、
人と人のつながりが薄れたりと、負の側面も目につく。GNHの真価が
今こそ問われている。
民族衣装をまとって来日した初々しい国王夫妻を待つ、宿題だろう。】
数年前、韓国の射場でブータンの射手と思われる方に会った。
本当にブータンの方だったか記憶に自信はないが、
纏っていた伝統衣装が、今回来日された国王のものとよく似ていた。
矢は弓の左に置き、取りかけは人差し指、中指、薬指の三指である。
多少個人差があるのかもしれないが、射はシンプルで、かつ素早い。
一見華奢な伝統弓から放たれた矢には、十分な勢いがあった。
今思えば、このブータンの伝統弓術にも、虚飾を忌避するような国民性が
表れていた気が、しなくもない。
KBS NEWS
【第1回高麗王杯国際騎射競技会】が韓国・KBS NEWSで取り上げられました。
韓国の友人たちがfacebookで知らせてくれていたのですが、うっかりしていて、
それに気が付きませんでした。
http://news.kbs.co.kr/news/actions/VodPlayerAction?type=2&cmd=showMP4&vod_info=D%7C10%7C%2Fnews12%2F2011%2F10%2F17%2F280.mp4%7CN%7C%7CF%7C10%7C%2Fnews12%2F2011%2F10%2F17%2F1000k%2F280.mp4%7CN&news_code=2373258
http://news.kbs.co.kr/world/2011/10/17/2373054.html
進め! 高麗王おもてなし隊
【第1回高麗王杯国際騎射競技会】でお披露目された、“高麗王おもてなし隊”
華やかな高句麗の伝統衣装を纏う彼女たちは、会場にいらしたお客様の
ご案内をする、というお役目。(ただし関係者は対象外、念のため)
私も詳しいことは知らされていないが、モトジメはどうも高麗王らしい。
「高麗王の職権乱用か!?」
一瞬、疑惑がよぎる…。
ま、そのへんは私も立場上(片)目をつぶるとして、たしかに彼女たちのおかげで
会場はまさに高句麗古墳壁画の世界、雰囲気も華やかで上品になった。
小さなテーブル (アイロン台?) まで用意してランチのおもてなし隊。
(Photo by JTB)
それにしても準備の良いこと。ブルーシートとの色合いもきれい。
高句麗美人たちはいつでもどこでも上品である。
私もまぜてもらいたいけど、ヒザが痛くなりそう、トシだから。
これからも、高麗郡建郡1300年記念事業に花を添える高句麗美人が
どんどん増えてくれることを願っている。
高麗郡建郡1300年記念事業・高句麗文化フェスティバルは、
11月27日(日)まで高麗神社で開催。
Report by “ 高麗王騎馬隊” 隊長
(おかげさまで “ヤブサメ脱藩浪人” からちょこっと出世しました。)
高句麗文化セミナー
1300年の時を超えて
― 来る2016年、高麗郡建郡1300年を迎えるにあたり、日本と韓国の共通文化である
騎射を通じ、かつて建郡に尽力した高麗王若光と高句麗人1799人の功績を称えると
共に、両国間の友好的かつ恒久的な文化交流を推進する ―
私が冒頭の開催趣旨を書いたのがちょうど一年前のこと、
その後は主催者の高麗文康宮司とともに、開催準備に奔走した。
私は県外者であるが、日本騎射協会として高麗郡建郡1300年記念事業委員会への
登録が認められた、一方開催に先立って8月に韓国の世界騎射連盟本部を訪れた
高麗宮司は世界騎射連盟の副会長に推挙された。
競技会開催にあたっては、高麗神社は無論のこと、世界騎射連盟、韓民族傳統馬上
武芸撃毬協会、WoMAU-UNESCOなど韓国側からも多大なる支援、協力を頂いた。
その他にも大勢の方々の力添えを受けた。
競技会会場アレンジ・運営ではJTBとその関連会社の方々に、
元気のいい馬たちは、佐島牧場、つばさ乗馬苑、岸本乗馬センター、クリエ三浦から、
無報酬、暑さのなかでの労働といった待遇の悪さにもかかわらず不満をもらすどころか
楽しんで役目を務めてくださったボランティアでは、慣れないジャッジを審判委員長の
指示のもとこなしてくれたハマアーチェリー・高橋さん・横川さん・つばさ乗馬苑の
スタッフの方たち、当会所属とはいえ馬場の設営、的関係の製作を一手に引き受けて
くれた篠原さん、また三足烏をあしらった表彰メダルのデザインでは河さん、さらに、
韓国側との調整で通訳をかって出てくれた韓国のSさんの存在も大きかった。
あらためてここで感謝を申し上げたい。
なにはともあれ、第1回高麗王杯騎射競技会が無事に終わってよかった、
と胸を撫でおろしている。
“なぜもっとPRしなかったのか?”“どんどん広めるべきだ!”
競技会開催中、人に呼び止められては、そんなうれしい叱責や激励を受けた。
残された課題も多いが、なにぶん初めての競技会である。いたらぬところを挙げれば
キリがない。今はただ、実現できたことを素直に喜びたい。
そしてこれから大事なことは、開催趣旨に従って、そして高麗郡建郡1300年記念事業
として、日韓両国の人たちが共に支えあいこの競技会を継続していくこと。
それにしても皆、よくここに集まってくれたと思う。
たしかに、1799人にはまだまだ足りないけれど…。
第1回 高麗王杯国際騎射競技会 開催される
2011年10月16日(日) 記念すべき第1回高麗王杯国際騎射競技会は、
日高市市長・大沢幸夫氏、日高市市議会議長・安藤重男氏、埼玉県議会議員・
小谷野五雄氏、世界武術連盟(WoMAU-UNESCO)事務総長・イ グンオック氏
世界騎射連盟会長・ゾン ムンホン氏、世界騎射連盟議長・キム ヨンサップ氏、
大韓民国忠清北道中州市観光課課長・チョ ワンジュ氏、高麗郡建郡1300年記念
事業委員会会長・丹下敏男氏ら来賓挨拶のあと高麗神社宮司・高麗文康氏の
開会宣言により開幕しました。
前日までとはうってかわった晴天に恵まれ、彩りも鮮やかな衣装に身を包んだ
日韓両選手総勢11名が、巾着田に特設された走路を駆け抜け、騎射の技を
競い合いました。
種目は的数が異なる3種それぞれを2走し、的中した騎射の得点とタイムで
順位が決められます。的間の距離は30mと短く、間近で観戦した大勢の観客から
迫力ある騎射に、歓声と惜しみない拍手が送られていました。
果敢にかつ安全に、そして公平に行なわれた騎射競技は、韓国側に軍配が
あがりました。
そして韓国選手による“連続騎射”を最後に閉幕式を迎えました。
セレモニーとして韓国選手の馬上武芸や地元少年たちによるテコンドーの
披露もあり、また前日、高麗神社にて開催された”高句麗文化セミナー”も
盛会で、「高麗郡建郡1300年」の記念事業にふさわしい文化交流、
国際親善となりました。
第1回高麗王杯国際騎射競技会開催のお知らせ
高麗郡建郡1300年記念事業【第1回 高麗王杯国際騎射競技会】が
2011年10月16日、埼玉県日高市巾着田において開催されます。
また前日の15日には、【高句麗文化セミナー】が高麗神社にて行なわれます。
いずれも入場無料です。
■ 高句麗文化セミナー
日時:10月15日(土)13:30~16:30
場所:高麗神社参集殿2F 大広間
■ 第1回 高麗王杯国際騎射競技会
日時:10月16日(日)10:00~17:00
主催:高麗神社 日本騎射協会
共催:世界騎射連盟 韓民族傳統馬上武芸撃毬協会 日韓騎射連盟
後援:日高市 高麗郡建郡1300年記念事業委員会 日高市観光協会
日高市国際交流協会 在日大韓民国民団埼玉県地方本部
渡来文化を考える会 高麗郷歴史散歩の会 飯能日高テレビ 文化新聞社
飯能信用金庫 秩父御嶽神社 由城山福聚院慈眼寺 今井山正副寺
日高ロータリークラブ 日高武蔵ロータリークラブ 日高市商工会
UNESCO-WoMAU
【第1回 高麗王杯国際騎射競技会】を開催するにあたり、
今年1月、世界騎射連盟韓国主要メンバーが、高麗神社を表敬訪問、
その折、世界騎射連盟・キム ヨンサップ議長から高麗文康宮司(世界騎射連盟副会長
日本騎射協会最高顧問)へ韓国伝統弓の贈呈。(高麗神社にて)
武芸図譜通志の世界
高麗郡建郡1300年記念事業・【高麗郷文化フェスティバル】のお知らせ
弓馬の恩師 LX <最終回>
恩師の下を去り、私は独りとなったがその後も騎射は続けた。
とはいっても、流鏑馬や笠懸などの催しには多くの人の力と資金が必要とされ、
決して容易なことではない。それでも騎射に所縁のある場所を訪ね、企画をたてては
有志や支援を募った。まず企画が通ることだけでも稀なことだが、
ご縁をいただいて、出雲大社、鹿島神宮など、わが国有数の神社で奉納した。
なかでも、京都伏見・城南宮は800年ぶりの流鏑馬であった。
流鏑馬で関わった神社すべてを数えると、一個人としては多いほうであろう。
休みの日には努めて博物館や古書を見てまわった。図書館にはあまり足が向かず、
東京・神田の古書店街によく通った。
わざわざ自分の足で探して歩くのには理由がある。
それは、まるで呼ばれたかのように思いもよらぬ本と出会い、あらたな発見から
予期せぬ方向へと導かれる楽しみがあるからだ。
私が、騎射の本質を探るうえで、日本だけでなく大陸の騎馬文化についても
学ぶ必要があると考えるようになったのは、そうした本たちとの出会いも大きい。
ユーラシア大陸の騎馬民族によって培われてきた騎射が時を経て日本に渡来し、
果てには武士の表芸となった、という歴史の流れに私は惹きつけられた。
そして大陸への興味は日を追うごとに増し、気がつけばいつの間にか、
モンゴルや韓国など、騎射文化と関わりの深い国を巡るようになり、
行く先々で人の縁の恩恵を受け、貴重な経験を重ねることができた。
だが、それでも私にはわずかな疑問が残っていた。
なぜ、そうまでして騎射にこだわり続けるのか自分自身でもよくわからず、
単に好きとか趣味とかという理由ではまったく足りなかった。
恩師の先代が、著書のなかで、
“釣りが好きな人を見ると、前世は漁師だったのではなかろうかと思う”
というようなことを書いておられる。
まぁ前世とまでいわなくとも、人の嗜好に血筋が大きく影響しているのであれば、
私の場合、先祖が騎馬武士、あるいはもっと遡って騎馬民族ということになるのだろうか?
残念ながら私の家にそれを証明してくれるものは何も無い。あれこれ探してみても
証となりそうなものといえばただひとつ、祖父方の姓である。
祖父が金子姓であった。養子に来たので、宮川となった。
実はこの金子の“金”という一字に、騎馬民族の系譜が込められているような
気がするのである。
そのむかし騎馬民族が勃興したユーラシア大陸のほぼ中央、モンゴル国からみて
西にあるアルタイ山脈の“アルタイ“とは、モンゴル語で黄金を意味する。
“黄金の山”と呼ばれたこの山からは、かつて金銀を多く産出した。
騎馬民族といえばまず馬や弓が思い浮かぶが、彼らはまた
黄金によっても象徴される。
蛮勇、残虐で知られる彼らだが、一方で芸術性に優れた黄金の装飾品を
数多く造り愛好した。それらが、彼らの支配者層とみられる墳墓に副葬品として
大量に納められていたことでも証明される。
それだけでなく、彼らはあらゆるものを黄金という言葉で飾った、
“アルタン”“キム”“金”“愛新(アイシン)”のように、人の名前にも使われている。
だからもし、彼らの目でユーラシア大陸を俯瞰したなら、一面黄金のかけらで
眩いばかりに輝いて見えるにちがいない。
そして、その黄金の極々小さなかけらのひとつが私の中にも存在し、弓馬の道へと
突き動かしている・・・、私が金子姓をもとに、理由として思いつくのはせいぜい
その程度だが、やはりこれは単なる幻想にすぎない。
私は疑問の答えを探しながら、まるで黄金のかけらを一粒、一粒、拾い集めるように
モンゴル、韓国と巡り、そしてまた日本に還って来ることになった。
埼玉県日高市に「高麗」という駅がある。
かつて、このあたりを中心とした一帯は高麗郡と呼ばれており、
今から約1300年前、高句麗人が入植し高麗郡を建てた地として知られている。
高句麗人は騎射に長けていたといわれ、そのことを示す馬射戯図が
北朝鮮・大安市にある徳興里古墳の玄室西壁に描かれており、
これはまた、流鏑馬の原形ではないかという見方もある。
来る2016年、高麗郡建郡から数えちょうど1300年の節目を迎えるにあたり
“建郡に尽力した高句麗人たちを偲ぶ”という趣旨で、地元の有識者である
K氏と共にある企画を立てた。
そしてK氏と共に、開催候補地である巾着田へ視察に赴いた。
巾着田というちょっと変った地名は、周囲を流れる高麗川が
そこだけ巾着のかたちに大きく弧を描いていて、昔はその内側が田んぼだった
ことによるらしい。
今は自然公園となっており、秋には無数の曼珠沙華が真っ赤に地面を埋め尽くし、
地元の観光名所となっている。
歩きついでに巾着田を抜けて、高麗川のほとりまでいってみた。
緩やかで水のきれいな流れだった、足元で小さな魚が幾筋も走った。
“高句麗人の騎射”
今、それをこの地で表現しようと考えている。
ところで、
“このことを恩師に告げたら、いったいなんとおっしゃるだろう”
ふとそう思った。
ご年代からお顔をしかめるかもしれず、あるいはまた、あの頃のように
笑いながら“良くも悪くも・・・” そうおっしゃるのだろうか。
私は、騎射に関する事はいまだに恩師のご評価が気にかかる。
会場予定地を一通り見終わって、私は歩きながらK氏に金子姓の話をした。
ここから南に少し下ったところに金子氏発祥の地があり、北へ少し上った
ところには、入植した高句麗人たちの首長であった若光を祀る高麗神社が在る。
そこの宮司は若光の子孫が務め、“高麗姓”を名乗り現在で第60代目となる。
K氏は私の話を聞いて、
“じつは昔、高麗家と金子家は姻戚関係にあったらしい”
という話をしてくださった。一瞬、目の前に疑問の答えが現れたような気がした。
しかし現在、全国にいったいどのくらい金子姓があるのか、そのなかで
祖父の家系がそこに繋がるかどうか定かではない。
が、私はそれでもいいと思っている。
なぜなら、人と人とを結ぶ縁というものの不思議さこそが、何より確かな証だと
思えるからである。
いずれにしても、私にはまた新たな道が見えてきつつある。
― そういえば、
いつか夢の中で、最後に恩師を追ったあの川辺は、
さっきの高麗川であったような気もする、景色がとてもよく似ているように思えた。
もちろん、これも幻想だとわかっている。
それでも私は足を止めて、いま来た道をふり返らずにはいられなかった。
― わが弓馬の恩師、金子家教先生に感謝をこめて ―
Cultuer Ⅱ
先日来日した、世界騎射連盟の議長で、私の韓民族傳統馬上武芸の師でもある
Kim Young-Sup氏が日本と韓国の有識者が集う席上で、
「近年、韓国と日本はかつてないほどの友好的な関係にあります。」
と述べられた。私にはそれが大きな励みとなったが、
世の中のごく一部には両国間のこうした状況に対するアレルギーもあり、
歴史認識の摩擦まで絡んで時折物議を醸している。
それでも、ある限度内であれば、かえって自国の文化やアイデンティティーを
考える良い機会にもなり得る。
だが最近、和太鼓を嗜む知人は、こう漏らしていた。
「日本の伝統文化を守ろう、というけれど、今の人達は日本の伝統楽器の
名前を挙げることはできても、演奏することができないんだよ…」
実技が失われ形骸化しつつあるのは、楽器に限ったことではない。
まだインターネットが普及していない頃、
アメリカに留学した友人は、留学先で日本の歴史や文化について
色々と聞かれることがあまりにも多かったため、急いで日本から母国についての
資料を取り寄せた、といっていた。
反対に留学生を受け入れる側から見ると、“日本の留学生はつまらない”とこぼす。
同じアジアでも他の国の留学生は、伝統舞踊を踊って見せたり、そこまでできなくても
自国の歌の一つでも披露してくれるから、らしい。
また、日本に来たある英国人から、
「英国ではたいがいシェークスピアについて論じあえるが、日本ではかなり
社会的地位の高い人達でも源氏物語について論じあうことがない、なぜですか?」
と問われ、返答に苦慮した…という話もある。
他国の文化に触れ、学び、そして受け入れるということは、
真に自国の文化を愛する心があってこそ、より充実するのではないだろうか。
弓馬の恩師 LIX
すいぶん迷った末の決断であった。
恩師は口にこそされなかったが、私の思いは十分、
わかっていてくださったような気がする。
あのようにおっしゃりながらも、その理由を深く追求なさらなかった。
「わからないことがあったら、また来ますので 」
「ああ、いつでもこい!」
恩師は、やけに大きな声でそうおっしゃった。
それからひと月ぐらい経ったある日、私に一通の内容証明付きの封書が届いた。
差出人の名は、恩師であった。
ところが、封書をよく見ると赤坂郵便局の消印である。
“鎌倉の恩師がなぜ、赤坂から?”
表書きも達筆な恩師の文字ではない、
いやな予感がした。案の定、それは的中した。
破門状である。
当然だが、内容は酷いものだった。
が、それが恩師の書いたものではない、ということはすぐにわかった。
前にもふれたが、私は会報の編集を担当していたので、
恩師のお書きになる文章をよく知っている。
届いた書面の内容の稚拙さはもとより、全てにいたる文章が、
とても恩師の名の下に出されたと、思えるものではなかった。
― では、誰がこれを・・・
おそらく流儀をまもろうとして、したことなのであろう。
その気持ちはわからなくもないが、少し行き過ぎではないだろうか。
恩師と私とのあいだでは既に円満に話がついていた、
それに水を差されたかのようで、憤りをおぼえた。
しかし恩師の名で届いている以上、私は恩師に直接うかがうことにした。
それはまた、恩師に久しぶりに会う口実であったようにも思える。
数日後の初秋の夜、仕事を終え恩師のご自宅に向った。
着いたのは八時ごろだったろうか。突然の訪問であったにもかかわらず、
縁側まで出てきてくださった恩師へご挨拶もそこそこに封書をお渡しした。
どれどれ”と目を通されるや否や、
「わしゃ、こんなもの書いとらんぞ!」
それでも私は恩師に詰め寄った。“これはいったいどういうことなのですか ”
恩師が書いたものではない、ということは痛いほどわかっていた、
だからこそ、それができた。
しかし、あえて怒っているように見せるのも辛いことだった。
私はすぐに力尽き最後に搾り出すように、
「とにかく、いずれあらためて伺います。今日のところはこれで・・・ 」
破門は私の経歴に大きな傷をつけるが、同時に破門者を出した側にも
すくなからず、傷がついてしまう。
そのリスクを知る流派では、安易に入門を許さなかったり、どうしても
“その”必要が生じた場合には、やんわりと“遠慮していただけませんか”
などと告げ、破門を極力避けるものである。
ゆえに、破門を受理する前にこちらから退会届を出せば、表向き円満に
事を収めることができる。
私の“あらためて伺います ”はつまり、そういう意味である。
― が、私は再びここへ戻る気は無かった。
私は、非礼に対して非礼を押し通すことで、せめて一矢、報いたかったのである。
だが、放った矢は今も尚、この胸の奥に刺さったままでいる。
「・・・そうか、わかった 」
恩師はかすかに頷かれると、私に背を向け奥へと入っていかれた。
そして、これが恩師との今生の別れとなった。
韓国の“熱い夏”
2011年8月11日~15日、
韓国・束草市にある世界騎射連盟本部に於いて、
【The 7th World Horseback Archery Championships】が開催されます。
尚、今回より正式にUNESCOの承認を得た大会となります。
◇ポスター右上にある“UNESCO”のマークにご注目!
日本騎射協会
From Mongolia Ⅲ
モンゴルの国家的祭典であるナーダムが13日、大盛況のうち、その幕を閉じた。
ナーダムの起源は紀元前・匈奴の時代にまで遡るともいわれ、
なんと今年2011年は、匈奴建国から数えて2220年目にあたるという。
ナーダムの期間中、相撲、競馬、弓射の三競技が、それぞれいくつかの種目で
行なわれるが、なかでも最終日の競馬だけはなぜか“観ると良いことがある”と
信じられており、特にこの日は、郊外の競馬場へ大勢の人が観戦に詰めかける。
その前に“ホショルを食べなければナーダムははじまらない”ウヌルさんは、
もちろん競馬場で家族と一緒に食べたらしいが、あいかわらず私にも
“ご馳走したい、食べさせたい”とシツコク言っている。
これからの一年、ウヌルさんとそのご家族に、たくさんの幸せが訪れることを
心から祈っている。
ウヌルさんがおしえてくれたモンゴルのサイトに、
今年のナーダムの模様が掲載されている。
それを眺めていると、はじめてナーダムに参加したときの気持ちが甦ってくる。
弓射競技の記事では懐かしい面々が並び、バヤルツェツェグもよく撮れているが、
どの写真だかおわかりだろうか。
それはそうと、バヤルツェツェグの弓射競技の結果である。
ハルハ・ソルでは前半10位以内に入っていたようだが、その後どうなったのか、
まだ結果の知らせが届かない。
いつだったかモンゴルで、
「自分の大切な夢は、決して人に話してはいけないよ、叶わなくなってしまうから」
たしか、そんなことを聞いたような…
まさか、彼女はその禁を破ってしまったのでは、と少々気がかりではある。
いずれにしても、彼女のようにとても熱心で優秀な射手が友人であるということは、
私の誇りである。
日本と違い、夏の短いモンゴルでは“ナーダムが終われば秋”である。
しかし最近、地球温暖化の影響でそれも少し遅くなっているのでは…と、
こちらは勝手に気を揉んだりしている。
http://shuud.mn
弓馬の恩師 LVIII
夜、空港に着くと、歴代王の大きな肖像画が飾られている特別室に通され、
そこで暫し時間を潰した。
やがて出発も間近となり、特別室を出て免税店を見てまわった。
ペルシャ絨毯はとても魅力的だったが、小さなものでも私には高価すぎて、
とても手が出ない。
結局、日本への土産にお菓子を、自分用には、文字盤にこの国の紋章が
あしらわれている腕時計とサフランを買った。
いよいよこの国を去るときが来た。
小野大使と奥様に見送られながら、私達は恩師ご夫妻を先頭に
出国ゲートへと進んだ。一番後ろの私に大使が手を差し伸べられ、
「これからも、ますますの活躍を。」
最後に、静かなお声でそう言葉をくださった。
しかし、私はその応えに一瞬躊躇し、ただ頷いてみせるのが精一杯だった。
来たと時と同じように外は真っ暗で、ただ滑走路の灯だけが点々と、
寂しげに続いていた。
おそらくこの国に再訪の機会はないだろう、そんなことを思いつつ、
飛行機が離陸するまでのあいだ、窓の外を眺めていた。
― あれからずいぶん月日が流れた。
エビンは、いまどうしているか…、もう、あの厩舎にはいないかもしれない。
それでも、バハレーン王国での日々を想うとき、まず浮かんでくるのは
真白い厩舎の窓から真黒い頸をつき出して、ぼんやりと外を眺めている彼の姿である。
心に残る馬と出会ったとき、
来世は人として生まれることを祈ってやらずにはいられない。
人として生きることが、より幸せなことなのかどうかはわからない。
けれども、馬は人が乗らなければ絶滅してしまう動物であるというのは、
やはりどこか詭弁であるような気がしてしまう。
そして、”人生で最高の瞬間”は、かなり後になってからわかるものだと知った。
弓引きの私にとってバハレーン王国での流鏑馬は、まちがいなくそれであった.
帰国してすぐ、バハレーン王国からハマド国王名で贈り物が届いた。
包みを開けると美しい木箱で、その中はスイス製の高級腕時計だった。
使うのがもったいなくて、時計は今も木箱の中に入れたままである。
恩師のあのお言葉も、私の耳に鮮明に残っている。
「おまえさんは、良くも悪くも信じられんことを…」
バハレーンの流鏑馬から半年くらい経った頃、
私は恩師からまたおなじことを言われた、しかし今度は様子が違った。
あきらかにバハレーンのときとは正反対の、悪いほうを指しておられた。
理由は…、
昔風に言ったなら、私が“暇をいただきたい”と恩師に告げたからである。
弓馬の恩師 LVⅡ
王子に続いて行くと急に目の前が開け、低くなだらかな丘に突き当たり、
私達はそこで馬から降りた。
丘の上には、黒い丸太で組まれた平屋のログハウス調の建物があった。
国王のものにしては意外なほど質素な印象であるが、上品な佇まいであった。
その前に側近に囲まれた国王が立っておられ、小野夫妻と共に
私達を出迎えてくださった。
私達は順々に国王の前に進み、握手を交わした。
私は最後だった。私が国王と握手を交わそうと手を延ばしたとき、
「昨日の流鏑馬のチャンピオンです」
小野大使の奥様が、言葉を添えてくださった。
国王から特別なお言葉はなかったが、奥様のおかげで謁見が表彰式ともなり、
私はそのとき見えない金メダルを胸につけて貰った気がした。
国王の右手は、厚く大きかった。
そのあと、国王は用意された騎射弓を手に取り、思い切りよく神頭矢を
空に向けて射放われた。
国王の別荘を後にする頃には陽もずいぶん傾いていた。
上空を、この国のものではない戦闘機が轟音を立てて飛んで行った。
“ああ、そうだった…”
ここから目と鼻の先のイラクでは、いまもアメリカとの一触即発の緊張状態が
続いている。同じ中東の国でも、ずいぶん明暗が分かれているものだ。
「2年後には、F1グランプリが開催される予定です」
日本大使館の方が話してくださった。そしてそれは実現された。
余談になるが、のちにサッカーで日本とバハレーンの重要な対戦が行われ、
当日は朝からそのニュースで持ちきりだった。そのなかで、日本とバハレーンの
国家間の交流についても紹介され、なんとそれに流鏑馬が取り上げられた。
私はそのニュースをベッドの中で眺めていたが、TV画面にいきなり私とエビンが
映し出され、驚いて思わず飛び起きた。
サッカーといえば、日韓同時開催となった2002年ワールドカップのときにも、
“開会式で流鏑馬を”という企画があったようだが、残念ながら
こちらは実現しなかった。
Legacy
先日ある雑誌に載っていた興味深い記事である。
今、アメリカではエリートと呼ばれる人たちが、
それまでの輝かしいキャリアを捨てNPOなどに移っていくケースが増えつつあるという。
彼らは、自分の利益をただひたすら追い求めるのではなく、
「自分の能力を磨いて社会や人々に貢献する、それが自分の遺産」
だと考え、その “後世に何かを遺したい” という思いは、
残りの人生が少ない人ほど強くなる・・・らしい。
しかし、残りの人生が少なくなってから何かを遺そうと思い立ち
あわてて一から始めたのでは、やはり遅すぎるのではないだろうか?
その人の人生のなかで、命を削るほどの情熱と長い時間をかけて
取り組んできたものでなければ、とても後世への遺産と呼ぶに
ふさわしいものは遺せない、と私は思う。
印象派の画家として有名なルノワール。
描いた作品の数々は、美術界の貴重な財産であり、彼の遺産である。
しかし彼自身は、そのために描き続けたわけではなかった。
彼は晩年、リウマチを患って手が利かなくなり、絵筆を指に括りつけて描いていた。
そして亡くなる日の朝、アネモネを描きながら、一言、こうつぶやいたという。
「やっと、なにかが解りかけてきたような気がするよ」
その言葉からすれば、
いま、世界中で高い評価を受けている彼の作品も、
彼が自身のなかに存在する「芸術」といったものを追い求めてきた足跡に
過ぎないともいえる。
しかし私は、そうした彼の芸術に対する生き方や想いが作品からあふれでて、
観るものの心になにか響いてくるのだと思う。
だからこそ、時代を越えて人々に受け継がれていくのだと・・・。
(2008/04/17 Mongolian form Brog から転載)
弓馬の恩師 LVI
その日、国王は砂漠の別荘におられた。
午前は国立博物館を見学し、昼食は豪華な伝統料理でもてなされた。
そのあと私達はホテルに戻り、国王との謁見に備え、再び流鏑馬装束に着替えて、
郊外に向った。
私達を乗せたバスは、あっというまに市街を抜けると建物や民家もまばらになり、
やがてそれらも無くなって石と砂だけの景色になった。
しばらくして、バスは道を外れて砂漠の中を進んで行った。
その先の砂漠の真ん中に、王宮府関係者らしい人たちが数名と、馬とラクダが
いるのが窓越しにみえた。
謁見に先んじて、流鏑馬の会場でお会いしたナーセル王子が、
私達を出迎えてくださっていたのだ。
当時、まだ中学生か高校生くらいの若さでおられたが、この場の主役として、
すでに王子の風格を漂わせていた。
私達は見事なペルシャ絨毯の上に通された。が、一反数百万円は下らない、
という話を耳にしてからは、気兼ねなく座すことができないでいた。
右横に目隠しをされた鷹と、かごに入れられた雁が用意されていた。
これはナーセル王子による接待で、私たちに披露される鷹狩りのためであった。
お茶がふるまわれ、さっそく鷹狩りが始まった。
まず、獲物となる雁を空に放つ。
続いて鷹が放たれると、鷹はすぐに獲物を追いかけ始めた。
追われる雁は、左右に大きく蛇行して飛び必死に逃げようとするが、
鷹は冷静にその内側を飛びながら、じわじわと距離を縮めてゆく。
見ていて気の毒なくらい、飛翔力の差は歴然としていた。
しかも鷹は雁が遠くへ行かないよう、逃げる方向さえコントロールしているかの
ように見えた。
ところが、いよいよ触れんばかりに距離が縮まったときである、
雁は見計らっていたように体を翻らせると、一気に急降下した。
獲物を見失った鷹との距離が一瞬大きく開いた、…見事だった。
日本風に言えば、つるべ落とし、あるいは木の葉落し、といったところである。
しかし、地上すれすれのところで追いつかれ、結局雁は鷹に捕らえられてしまった。
それでも私は、健闘した雁のほうに軍配を挙げてやりたかった。
鷹狩りが終わり、私達は用意された馬に乗って、
ナーセル王子を先頭に、国王の待つ別荘へと向った。
私は、最後に残ったやる気充分の栗毛に跨った。
馬はひたすら地平線をめざして疾駆した。
王子はさすがに上手く乗っておられる。私は馬を抑えながら、王子の右後ろに付いた。
今思い返してみても、王子と砂漠を馬で駆けたなど、夢のようなことである。
どのくらい走っただろう…
ようやく、地平線に小さな森が見えてきた。
“あれが国王の別荘か”
白いゲートにたどり着くとそこがすぐに開かれ、
私達は、低い木々のあいだにゆっくりと馬を進めた。
厩戸皇子と甲斐の黒駒
実は、聖徳太子(厩戸皇子)も弓馬に長けていた、という説がある。
詳らかなことは不明だが、馬に関わる話はいくつかあって、
なかでも甲斐国産の黒駒が太子の愛馬であったことはよく知られている。
そのいきさつについて、「扶桑略記」によれば、598年(推古天皇6年)4月、
太子が諸国の牧から数百の駿馬を貢納させたとき、そのなかに1頭、
馬体は青毛だが肢の白い馬がいた。
太子はその馬を指し、“この馬こそ神馬である”と大そうお気に召し、
以後自分の愛馬として、舎人の調使麿に飼育をまかせた。
この馬が、その甲斐の黒駒(烏駒)である。
甲斐国とは現在の山梨県で、
古代から名馬の産地として牧が置かれていた所である。
一方、高句麗などからの渡来人たちも多く居住していたこともわかっており、
おそらく、牧の管理運営に深く関わっていたであろうことが推察されるが、
これも詳らかなことは不明である。
ちなみに巨摩郡という地名は、高句麗をさす高麗(こま)に由来するという。
ついでにいうと、716年(元正天皇霊亀2年)には、甲斐国の高麗人たちも
武蔵国に移り、高麗郡建郡にあたっている。
太子の黒駒には龍馬伝説があり、太子と調使麿を乗せて天高く駆け上がると、
富士山を越え信濃国まで馳せ巡り、わずか3日で都に戻ったと伝えられている。
この黒駒は生涯忠節を尽くし、太子が亡くなると棺の傍らに寄り添い、
草も水もいっさい口にせず、太子の墓前で一度嘶くと、その場で息絶えたという。
奈良・斑鳩にある駒塚古墳は、その黒駒を葬った場所であるといわれている。
日出づる処
弓馬の恩師 LⅤ
今日の結果をどれほど恩師が喜んでおられるか、
おそらくこれまでにないほどのお言葉があるだろう、
そう期待に胸を膨らませながら声をお掛けした。
「先生、お疲れ様でした」
恩師は笑顔でグラスをあわせると、
「・・・、うまくいったな」
「うまくいきましたね!」
少し間をおいて、
「おまえさんはいつもボーっとしとるから、気が気じゃなかったんじゃが・・・」
「・・・?」
「まあ、日頃から良くも悪くも、信じられんことをしてくれるからなぁ」
そうおっしゃって、恩師は楽しげに笑っておられた。
結局、流鏑馬のご講評はそれだけ・・・、私の期待は見事に外れた。
― それにしても、
恩師がおっしゃる、良い方は勿論、今日の流鏑馬のことであろう。
悪い方とは、あの鶴岡八幡宮での落馬のことにちがいない。
要するに、あの落馬の一件もこの度の成果もひと括りにされた挙句、
今回はたまたま良い方にころがった、と言われたようなものだ。
― しかし、
前に述べたように生来の人並み外れた悪戯好きであった恩師にしてみれば、
それは最高の賛辞だったのかもしれない、
多分、これほど翻弄させた弟子は、過去にはいなかったのであろう、
取りようによっては痛快なことである。
ともかく、私はここでようやくあの不祥事をご破算にすることができ、
ついでに少しばかり、おつりを貰ったような気がした。
レセプションも一段落し、部屋で小野大使夫妻と一緒にTVを見ていると、
早速、今日の式典の一部始終が放映された。
放送が終わるか終わらないかの時、小野大使の元へ一本の電話が入った。
受話器を取った大使の背筋が少し伸び、振り返りつつ視線がこちらに向けられた。
電話は王宮府からで、TVで流鏑馬をご覧になられた国王陛下が
“ぜひ会いたい“ そうおっしゃられているという。
私達は急遽、翌日の午後、ハマド・ハリーファ国王に謁見することとなった。
翌日、バハレーン王国滞在の最終日は、静かでとても清々しい一日であった。
それは天気の良さだけでなく、随行した王宮府の方々が醸し出す、
桁違いに高い品格に負うところも大きかった。
2011-03-27
In a world filled with hate, we must still dare to hope.
In a world filled with anger,we must still dare to comfort.
In a world filled with despair,we must still dare to dream.
And in a world filled with distrust,we must still dare to believe.
憎しみに満ちた世界では、希望を持つことを恐れてはいけない。
怒りに満ちた世界では、人々に安らぎを与えなくてはいけない。
絶望に満ちた世界では、勇気を持って夢を見続けなくてはならない。
不信感に満ちた世界では、信じ続けなくてはいけない。
みんなで分け合えば、できること。
このたびの東北地方太平洋沖地震で被害に遭われた方々に、
心よりお見舞い申し上げるとともに、被災により亡くなられた方々と
ご遺族の方々に深くお悔やみ申し上げます。
また、未だ安否のわからない方々のご無事をお祈り申し上げます。
被災地以外の地域では、
混乱を拡大する“買い占め” “悪質なチェーンメール”などを防止し、
被災された方々への救済と支援を最優先に、小さなことでも
いま各々が出来ることを、ひとつひとつ力あわせて、行動しなければなりません。
・みんなで分け合えば、できること。
http://twitpic.com/49zcwy
・節電の参考に――電気製品の消費電力まとめ(オフィス編)
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1103/18/news021.html
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